シャーロック・ホームズの影の下に

 ドイル傑作集5『ラッフルズ・ホーの奇蹟』(創元推理文庫)がいよいよ来月刊行となります。ミステリ、怪奇、東洋、冒険と、ゆるやかなテーマ別編集で刊行してきたこのシリーズも、今回の科学ロマンス篇で完結。第1巻が2004年、この傑作集の出発点になった『ドイル傑作選』全2巻(翔泳社)が1999年の刊行ですから、思わぬ長い仕事になってしまいました。

 ドイルにはホームズ物以外にも面白い作品がたくさんあるのに、チャレンジャー教授物のSF『失われた世界』をのぞくと、あまり読まれていないようなのは残念だ、なんとかしたいね、と北原尚彦さんと西崎憲さんからお話をいただいたのがそもそもの始まり。《ストランド》をはじめ、19世紀末から20世紀初めにかけて全盛を誇った読物雑誌の花形作家だったドイルは、探偵小説にとどまらず、怪奇小説、SF、冒険物、歴史小説、ユーモア小説、戦争物、スポーツ物と、なんでもこなすオールラウンドな書き手でした。時代のトピックを取り入れるジャーナリスティックなセンスや、読者をつかんで離さないストーリーテリングの才は、これらの作品でも十二分に発揮されています。傑作集完結を前に、各巻の内容をあらためておさらいしてみましょう。

 第1巻『まだらの紐』は、ホームズ外伝を中心としたミステリ篇。戯曲版「まだらの紐」には初演時の舞台写真も多数収録、見るからに凶悪そうなライロット博士や気丈なイーニッド嬢、犯罪者の邪悪な企みに立ち向かう我らがホームズとワトスンの勇姿を拝むことができます。リヴァプールからロンドンへ向かった列車が忽然と消えてしまう「消えた臨時列車」、一等車の客室でポケットに6個もの金時計をつめこんだ身許不明の死体が発見される「時計だらけの男」は、鉄道を舞台にした作品。19世紀に誕生した鉄道と探偵小説との深い関係については、小池滋先生の名著『英国鉄道物語』(晶文社)を是非ご一読を。今度新装版が出るシヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』(法政大学出版)にも、列車の仕切られた客室が新たなる犯罪の場となることへの不安が取りあげられています。

 第2巻『北極星号の船長』は、ホームズの信奉する科学と論理の世界が、じつは非合理の幻想世界と表裏一体であったことを示す怪奇小説篇。「大空の恐怖」の高度4万フィートの高空、「北極星号の船長」の氷に閉ざされた極地の海、「樽工場の怪」の西アフリカの島など、怪異が出現する舞台もヴァラエティに富み、ドイルが晩年に傾倒していった心霊主義を扱った作品も収録されています。また、一種の精神的ヴァンパイアを取り上げた「ジョン・バリントン・カウルズ」「寄生体」に、ドイルの意外な一面を見ることもできるでしょう。男たちを次々に不可解な死に追いやっていく“宿命の女”ミス・ノースコット(「ジョン・バリントン・カウルズ」)は世紀末作家アーサー・マッケンの描く魔性のヒロインを連想させ、強力な意思の力で主人公を次第にからめとっていく「寄生体」の老嬢ミス・ペネロサのおぞましさはモダン・ホラー的な味をかもし出しています。

 第3巻『クルンバーの謎』は、スコットランドの荒涼たる海辺に建つクルンバー館の住人に暗い影が迫る表題作をはじめ、インドやエジプトなど東洋に端を発するミステリアスな事件を描いた作品を集めた「東洋奇譚篇」ともいうべき一巻ですが、舞台はイギリス国内やパリで、いずれも西欧世界。謎の淵源は東洋にあり、という事件がホームズ譚に少なくないのは、ファンならよくご存知のことでしょう。古代エジプトと現代、数千年の歳月を超えた恋を描く「トトの指輪」は、ユニヴァーサル映画《ミイラ再生》に何らかの影響を与えているのでしょうか。

 ストーリーテラーとしてのドイルの力量を知りたいのなら、第4巻『陸の海賊』がおすすめ。炭鉱町の医院で助手として働く貧乏な医学生が、炭鉱を代表して製鉄所のチャンピオンとの懸賞ボクシング試合に臨む「クロックスリーの王者」は痛快無比な熱血スポーツ小説。横暴な貴族に老婦人に変装して近づいた青年が、大学仕込みのテクニックでボクサー上がりの用心棒を叩きのめす爆笑篇「バリモア公の失脚」、街道に出没する幽霊ボクサーとの一戦を描く「ブローカスの暴れん坊」など、作者自身の趣味でもあるボクシングを題材にしながら、一篇一篇趣向を凝らしているところはさすがです。ボクシングとドイルについては、富山太佳夫『シャーロック・ホームズの世紀末』(青土社)が有益。また、3作品に登場する海賊シャーキー船長は狡猾にして残忍、ドイルには珍しい悪のヒーローで、その極悪非道ぶりはいっそ爽快ですらあります。

 12月刊行の最終巻『ラッフルズ・ホーの奇蹟』は、SFという呼称が登場する以前の、科学ロマンスという呼び名が相応しい作品群を収めています。「SFの父」H・G・ウェルズも、まさにドイルの同時代人でした。ホームズ短篇第一作「ボヘミアの醜聞」と同年に書かれた表題作は、科学的発見が生んだ奇蹟を描きながら、化学実験に打ちこみ、推理の科学を説くホームズの作者が、一方では科学の進歩が人間や社会に与える影響について強い懐疑を抱いていたことを教えてくれます。「危険!」は、もし英国が潜水艦艦隊によって海上封鎖されたら、というIF小説。数か月後、第一次世界大戦が勃発すると、ドイルの予見した脅威はUボートの攻撃によって現実のものとなりました。

 新世紀に入り各社からホームズ新訳が刊行され、BBCのドラマ《シャーロック》が評判となるなど、ホームズ周辺の話題は相変らずの活況をみせていますが、この機会に「ホームズ以外のドイル」のさまざまな顔にも、是非ご注目いただければと思います。

藤原編集室(ふじわらへんしゅうしつ) 1997年開室、フリーランス編集者。《世界探偵小説全集》《翔泳社ミステリー》《晶文社ミステリ》《KAWADE MYSTERY》と翻訳ミステリ企画をもって各社を渡り歩く。卒論はシャーロック・ホームズ論でした。ツイッターアカウントは@fujiwara_ed

本棚の中の骸骨:藤原編集室通信