今回は、まず私自身の話から始めることをお許しいただきたい。

 私の父は、金にも女にもだらしなく、さんざん母に迷惑をかけたあげく私が中学を卒業する頃に離婚した。その後はほとんど顔を合わせることもないまま、10年ほど前、同居していた女性の家で息を引き取った。知らせを受けて、最後くらいは顔を見ておこうと出向いたその家には、私や妹が小学校の時に書いた俳句やら、図工の時間に作った彫刻やらが飾ってあった。母と私と妹を捨て、1円の金すらよこさないまま出奔した父にも、まだ家族を思う気持ちが残っていたのかと驚いたのだが同時に、家族を思いながらもそれを捨て、別の女性と暮らすことを選ぶという「矛盾」を抱えたまま生き、そして死んでいった父の血が、私にも流れているのだということに改めて気付かされたのである。

《もしも忘れているのなら、思い出させてあげましょう。私はあなたの妻です。》

 ドメニコ・スタルノーネ『靴ひも』(関口英子訳 新潮クレスト・ブックス)の第一章に当たる「第一の書」は、幼い子どもたちを置いて出奔した夫への恨みを綴った九通の手紙で構成されており、上に引いたのはその始まりの一文である。一連の手紙で私たちは、「結婚12年目にして夫が別の女性と関係を持ち、家を出ていってしまったこと」「たまにふらりと帰ってくる夫に、寄りを戻せると期待をしてはどん底に突き落とされる妻の絶望」「これらの手紙が、夫の不貞が発覚して4年の間に書かれたこと」などを知る。妻の側から、最悪の4年間(妻が自殺未遂したことまでほのめかされる)が描かれるが、この夫婦がその後どうなったのかは明らかにされないまま第一の書は唐突に終わり、「第二の書」へと続く。

「第二の書」は一転して、結婚して52年という老夫婦の日常が、夫の視点で描かれる。二人でヴァカンスに出かける準備をしている何事もない様子を読みながら、この夫婦はいったい誰なんだと訝る自分に気づく。もちろん、第一の書を踏まえたうえで、いくつかの可能性を考えながら読み進むわけだが、それでもこの夫婦が誰なのか明らかになる時、(たとえその予想が当たっていようと外れていようと)読み手は間違いなく驚くことになる。

 このあと第二の書では、老夫婦の自宅マンションが何者かによって荒らされ、飼い猫が行方不明になるという事件が起こる。部屋という部屋がめちゃくちゃにされ、あらゆるものが壊されてしまった中で、片付けをしていた夫があるものを見つける。それをきっかけに、第一の書で綴られた破綻した家族のその後、特に出奔した夫が、愛人とどのような日々を過ごしたのかが明らかにされていく。

 夫が求めていたのは自由だった。妻や子から逃れて、愛する女性とともに過ごす自由。しかし一方では、家庭を壊したくないという思いがあり、夫はその矛盾をどうすることもできなかった。そして、第一の書において夫に怒りをぶつけながらも自分の元に戻ってくることを望んでいた妻もまた、その矛盾をどうにもできずに苦しんでいたのである。

 この夫婦が抱えた矛盾に翻弄されながら多感な時期を過ごした二人の子どもたちはいったいどうなったのだろうか。「第三の書」では、両親が抱える矛盾を子どもたちがどう捉えていたのかを、冷静に、また残酷に描き出している。子どもたちの人生もまた順風満帆とは言えないものだったが、彼らは彼らなりに、この家族に満ちていた矛盾を受け入れながら生き抜く術を身につけてきたのだろうと思う。タイトルともなっている「靴ひも」のエピソードは、父親と子どもたちの間にあったほんのちょっとした出来事にすぎないが、そんな小さな出来事が、矛盾に満ち、いつ破綻してもおかしくない家族をつなぎとめる縁(よすが)として働いていたのだと考えると、このおぞましい家族の物語にも、なにがしかの希望が見えてくるような気がするのである。

 亡き父のことを思い出したのは、私の家族が本作の家族構成と似ていたからだが、どんな人間だってきれいごとだけで生きていくことはできないし、矛盾だってたくさんある。そんな人間が集まって、作っては壊し壊してはまた作り直す、そんな家族の形もあるのかもしれない。正しいとか正しくないとかではなく。

 

 あけましておめでとうございます。みなさまにとって2020年もよい作品との出会いがあることを心より願っております。

 今回ご紹介した作品、「ミステリーじゃないじゃん!」という声があちこちから聞こえてきそうですが、とにかくこの残酷でおぞましい家族の物語をぜひ読んでいただきたいと思って取り上げてみました。

 今年も「読み逃してませんか~??」とつい言いたくなるような作品をみなさまにお届けできたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

※読者賞の告知が若干遅れております。近日中には発表いたしますので、もうしばらくお待ちください!

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。