まず今回も、前回に引き続きアジア圏、中国作家の作品を紹介したいと思います。

 蔡駿(さいしゅん)『忘却の河』(高野優監訳、坂田雪子・小野和香子・吉野さやか訳 竹書房文庫)は、四月に『幽霊ホテルからの手紙』(舩山むつみ訳 文藝春秋)で日本初紹介された作家の邦訳第二弾です。中国では二十年以上前から作品を出し続けているベテラン作家なのですが、今年になってようやく日本語で読めるようになりました。

 一九九五年六月、上海のとある高校教師である申明(シェン・ミン)は、高校の屋上で教え子の柳曼(リウ・マン)が死んでいるのを発見します。夾竹桃による中毒死であったため殺人として捜査されるのですが、申明は前日の晩、柳曼と会っていたことを問われ、また自室から夾竹桃から抽出した毒が発見されたことにより逮捕されてしまいます。しかし決定的な証拠に欠けるとして、申明は逮捕勾留から十日後に釈放されます。

 これは誰かが自分を陥れようとして仕組んだ罠だと察した申明は、婚約者とその父に対してそのことを説明しようとするのですが、二人は旅行に行っていて不在だと知らされます。婚約者から捨てられ、高校もクビになり失意のどん底まで落とされてしまった申明でしたが、彼の苦難はこれだけでは終わりませんでした。柳曼殺害から二週間後、今度は申明自身が何者かの手によって殺害されるのです。

 柳曼の殺害とそれに続く申明の殺害、それぞれの犯人が見つからないまま九年が経過した二〇〇四年十月、かつて申明の婚約者であった谷秋莎(グー・チウシャー)は父が創設した爾雅(アルヤー)学園グループの理事長職についていました。グループが運営する第一小学校に視察に来た谷秋莎は、漢詩をすらすらと暗唱する九歳の少年、司望(スー・ワン)と出会います。漢詩暗唱だけに留まらない司望の知識に惚れ込んだ谷秋莎は、次第に司望の生活に関わっていき、ついには策を講じて司望を自分の養子として迎え入れることになります。

 谷秋莎はやがて、時として九歳とは思えないほど大人びた振る舞いをする司望に、かつての婚約者であった申明の影を見るようになります。そして司望は、自分が生まれる前に起こった申明殺害事件に異様なまでの執着を示し、自らが捜査をするかのごとく当時の関係者に話を聞いていくのですが、その過程で多くの人々がトラブルの渦へと巻き込まれていくのです。

 柳曼と申明の殺害、そして九年後に再び起こる殺人。過去と現在の事件に関連はあるのか。難航する捜査の鍵を握っている司望という少年はいったいなにものなのか。というサスペンス仕立ての本作ですが、他の作品と比べて特に異彩を放っているのは、スーパーナチュラルな要素が大きく絡むという点です。

 司望の振る舞いがどれほど在りし日の申明に似ていようとも、それが生まれ変わりによるものだとは、誰にとってもにわかには信じられることではありません。しかし現世の人が信じようと信じまいと、申明の意思は司望という小学生に引き継がれている、つまり生まれ変わりは実際に起こり得るのだという前提で本作は描かれています。このことが、殺された被害者自身が事件の真相を捜査をするという、本来ならありえない状況を成立させているのですが同時に、申明が生まれ変わるということは、人々のなかに忘れ去ったはずの記憶や思いを呼び起こすことになり、それはまた登場人物らをめぐる新たなドラマを生むきっかけにもなっているのです。

 注意したいのは、「よみがえり」ではなく「生まれ変わり」という点。亡くなった人がそのままの形で蘇ってくるのではなく、魂だけが別の生を受けて生まれ変わってくる、つまり周囲の人々は、見た目も声も異なる人間の振る舞いから、在りし日の面影をすくい取っていかなくてはならないわけですが、しかしそれだけでも十分に人の心を揺さぶることができるのだということが、随所に配された漢詩とも相まって、情感豊かに描かれています。

 過去と現在の殺人をめぐるサスペンス、と言ってしまえば割とありふれた設定のように思われるかもしれません。しかしそこに「生まれ変わり」という設定をひとつ放り込むだけで、ここまで趣のある小説になるというのはちょっとした驚きです。ぜひ読み逃しなきよう。

 蔡駿については、当サイト連載「中国ミステリの煮込み」において阿井幸作さんが、本作のことも含め詳しく書かれていますので、そちらもご参照くださいhttps://honyakumystery.jp/22581)。

 続いては集英社文庫の七月新刊、ブレンダン・スロウカムのデビュー作『バイオリン狂騒曲』(東野さやか訳)をご紹介します。

 チャイコフスキー・コンクールまであと一ヶ月と迫るなか、出場に向けて練習に励む青年バイオリニストのレイ・マクミリアンは、ニューヨークのホテルをあとにしてシャーロットの自宅に帰り、バイオリンケースを開けてみたところ、そこに入っているはずのバイオリンがないことに気づきます。そのバイオリンは、六年前に祖母から受け継いだものでしたが、調査の結果、それは十八世紀に作られたストラディヴァリウスであり、その価値は十億円を下らないということが判明したのでした。時価十億のバイオリンが消失したとなればこれはもう大事件です。FBIやら私立探偵やらがバイオリンの行方を捜査する一方で、レイは自分の親族、そしてバイオリンの正当な持ち主であることを主張しているマークス兄妹に疑いの目を向けます。

 レイの母親は、彼がバイオリンを弾くこと、音楽の道を目指すことに昔から嫌悪感を抱いています。そんなことをするくらいなら働いて少しでも家にお金を入れてほしい、母親はまるでレイを労働力としてしか見ていないような発言を繰り返します。そんなレイの味方になってくれたのは祖母のノラだけでした。ノラは、レイが帰省してくるたびに、彼のバイオリンを聴くのを楽しみにしていましたが、学校の備品のバイオリンを借りているレイにとっては、それもままならないことでした。六年前のある日、ノラはレイに向かって「この家の屋根裏部屋にじいじのバイオリンがあるはず」だと告げます。じいじとはノラの祖父、つまりレイの高祖父のことで、じいじは奴隷として仕えていた家の主人からもらったバイオリンをいつも弾いていたというのです。それを聞いたレイは、屋根裏部屋を一生懸命探すのですが見つかりません。しかし次のクリスマスに帰省したとき、ノラから贈られたクリスマスプレゼントは、まごうことなきじいじのバイオリンだったのです。

 このときはそのバイオリンにさほど興味を示さなかった親族でしたが、十億の価値があるとわかったとたん手のひらを返します。それはお前のじゃなくじいじのものなんだから、バイオリンは私たちに渡すべきだ、と。親族に渡してしまったらすぐに売り飛ばされてしまう、そう思ったレイは、なんとしても親族の手からバイオリンを守ろうと決意するのです。

 そんな折、じいじが仕えていた家族の末裔だというマークス兄妹が現れ、自分たちこそが、そのバイオリンの正当な持ち主なのだと主張し始めます。時価十億のバイオリンを巡ってレイ、親族たち、マークス兄妹が対立するなか、不幸にも盗難は起こってしまうのです。悲嘆にくれているうちにも、コンクールの期日は刻々と迫りつつありました。

 さて、ここまであらすじをお読みになって、あなたはレイ・マクミリアンという人物をどのように想像したでしょうか。

 実は私は、この作品を読み始めてしばらくの間、レイを白人だと思いこんでいました。レイが黒人であることはカバーの紹介文で触れられているにもかかわらず、です。読み進めていくうちに「そうか、黒人だった」と今更のように気づくわけですが、ではなぜ私はレイを白人だと思い込んだのでしょうか。

 黒人がクラシックを演奏するはずがない。
 黒人がうまく演奏できるはずがない。
 だからオーディションを受けさせる必要はない。
 そんな機会を与えるだけ無駄だ。

 なぜ黒人がクラシックを演奏するはずがないのか、なぜうまく演奏できないのか、それを理論立てて説明できる人はおそらくどこにもいないはずです。それはもう先入観や偏見などではなく、私たちのなかに無意識のうちに忍び込んでいる差別意識なのでしょう。本作では、レイがさまざまな場所で受ける差別を通して、私たちのなかにある、いわば「見えない差別意識」のようなものを浮き彫りにしていきます。レイの母親が、音楽で身を立てようと努力する彼に対して冷たく当たるのも、長い間不当な扱いを受け続けた結果、いつの間にか植え付けられた「諦念」なのかもしれません。そのような扱いに対して、最初はただ戸惑うだけであったレイですが、次第に抗う方法を見出していき、やがては揺るぎない立ち位置を得るまでになります。その力を与えてくれたのは、じいじのバイオリンであり、彼がこよなく愛するクラシック音楽なのです。

《音楽はすべての人のためのものです。》

 著者はあとがきでこのように書いています。しかしそれは音楽に限ったことではありません。学問、芸術、スポーツなど、いかなる事柄であれ、人種や性別、あるいは障害の有無を超えて、すべての人に開かれてしかるべきだと思います。そのようなメッセージを、著者はこの作品に託しているのだと考えます。

 消失したバイオリンを巡るミステリーとして、あるいは一人の黒人青年の成長譚として、あるいはクラシック音楽界を描いた音楽小説として、いろんな味わい方のできる作品だと言えるでしょう。ぜひお楽しみいただきたいと思います。

 さて、八月六日にライブ配信されました、「全国翻訳ミステリー読書会YouTubeライブ第15弾 第2回夏の出版社イチオシ祭り」はもうご覧いただきましたでしょうか。七つの出版社から、それぞれがこの夏〜秋に刊行されるイチオシ本をご紹介いただいています。これから秋に向けて、みなさまの読書計画にお役立ていたただけると幸いです。まだ見ておられない方はぜひ! 必見ですよ!

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡読書会世話人兼翻訳ミステリー読者賞の実行委員。夏から秋にかけては、各社のイチオシ作品が目白押しなので、割とあたふたと過ごしております。

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