「コロナ禍」である。

 イベントが中止になったり、仕事が在宅になったり、外出を控えざるを得なくなったりと、それぞれの場所で不便な思いをしている人がたくさんおられることと思う。

 私の場合、仕事柄COVID-19罹患者と接する機会が日常的にあり、ゆえに一般の人とはすこし違う問題を抱えている。

 風評被害。いや、これはもう差別といってもいいのではないかと思っている。

 コロナ患者受け入れ医療機関に勤めているというだけで、関係者が周囲から爪弾きにされる状況にあるというのは、すでにいろんなところで報じられている。私の周りでも、「保育園から来るなと言われた」「出社しないでほしいと言われた」などの声が聞かれ、多くは仕方なくそれらの要請に従っている。

 医療従事者家族を爪弾きする側が、そのことを、自分たちの身を守るためにはやむを得ない措置だと思っていて、かつこちら側はそれに対して明確に反論しにくいというのがこの問題をややこしくしている。ある人に「それは差別ではないのか」と尋ねたとき、「こちらの気持ちはわかってもらえないのか」と返されはしたものの、明確に「差別ではない」と否定することはなかった。もちろん面と向かって自分たちの差別意識を認めることはないだろう。というよりも、「私たちだってひょっとしたら差別しているのでは? という思いはあるけれども、感染のリスクを避けるにはこうせざるを得ない。なぜわかってくれないんだ」と言いたいのかもしれない(そんな気持ちも理解できるからこそ、こちらも堂々と拳を振り上げることができずにいるのであるが……)。

 立場によってさまざまな思いはあるにしても、結局のところ、このコロナ禍のなか、医療従事者とその関係者が差別を受けているというのは、厳然たる事実である(医療従事者に対する声というのは差別ばかりではなく、むしろ感謝や励ましの声がたくさんあるのだということは付け加えておく。現場の人間は、みなさんの言葉にとても励まされているのもまた事実である)。

 このように、自分が誰かに忌避されているとはっきり自覚できる状況で、「フィンケルスティーン5<ファイブ>」(ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フライデー・ブラック』所収 押野素子訳・駒草出版)を読むことができたのは、とても貴重だったのではないかと思っている。

「フィンケルスティーン5<ファイヴ>」というタイトルは、1989年にセントラルパークで起こった白人女性殴打事件で、誤認逮捕された5人の少年たちを「セントラルパーク5」と呼んだところから取られている。またこの短編は同時に、2012年2月、フロリダ州サンフォードで当時17歳の高校生トレイヴォン・マーティンが、自警団を名乗る当時28歳の男(ジョージ・ジマーマン)に射殺された事件も下敷きにしており、この2つの黒人差別事件が、一人の黒人青年の日常にどう影を落としているのかを描いている。

 ある朝、エマニュエルは一本の電話に起こされる。それは応募していた会社からの面接の連絡だった。約束の日時を確認してエマニュエルは電話を切る。このときのエマニュエルのブラックネス(黒人らしさ)は10段階中の1.5。公の場で人に見られるような状況だと4.0までしか下げることはできないが、電話であれば1.5まで落とすことが可能になる。彼は何をするにしても、その時々でブラックネスを意識する。バスに乗るとき、友だちと出会ったとき、その場にふさわしい態度を取ることができるよう、自分のブラックネスを調整しながら過ごしていく。

 適切なブラックネスに調整し、ショッピングモールに行く。ショップで面接用の服を買い、レジでレシートをもらう。だが店を出ようとしたとき、エマニュエルの手首が突然誰かに掴まれる。手首を掴んだまま店員の名札をつけた男は、彼にこう声をかける。

「そのシャツ、買ったんですか?」

 レジでお金を払い、レシートをもらう。私たちがいつも当たり前におこなっていることが、彼らにとっては身を守るために重要な行為であることに驚く。どれだけブラックネスを抑えていてもそうなのだ。エマニュエルの日常は、自分は差別されていると自覚し続けるストレスと、周囲とトラブルを起こさない程度にブラックネスを調整し続けるストレスに、常に晒されている。一方で、白人たちは恐れている。黒人が黒人らしさをむき出しにする瞬間を。白人にとって彼らは脅威であり、私たち日本人にとっては、過剰とも思えるほどの差別意識は、黒人に対する恐れの裏返しといえるかもしれない。

 こんなエマニュエルの日常と平行して、ある事件の裁判の顛末が描かれる。フィンケルスティーン図書館の外でたむろしていた5人の少年少女たちの頭をチェインソーで切断した男の裁判。判決は無罪。大の男がチェインソーを振り回して5人を惨殺するほどの脅威を、果たして子どもたちは男に与えたのだろうか。この判決に怒りを抑えることのできない黒人青年たちによる報復が始まりつつあるなか、エマニュエルもまた考える。コミュニティの間にうねる暴力の衝動に自分の身を委ねるべきかどうか……。

 ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーのデビュー作『フライデー・ブラック』には、12の短編が収められている。

 ブラック・フライデー当日、セールに群がる人々をゾンビ化させ、ほしい品物に殺到するその様子を暴力的に、かつ滑稽に描いた表題作「フライデー・ブラック」。ゲストがチョイスしたストーリーに沿って黒人やテロリストを殺害する、そんなアトラクションを提供するテーマ・パークで働く黒人を描く「ジマー・ランド」(この「ジマー」が、トレイヴォン・マーティン射殺事件の犯人から取られているのは言うまでもない)。遺伝子操作された優秀な子どもたちと、そうでない「天然」の子どもたちの、学校における格差を描いた「旧時代<ジ・エラ>」。銃で女性を殺しその後自殺した男と犠牲者の女性が、その後の顛末を上の世界から見守り、介入しようとする「ライト・スピッター ――光を吐く者」など、アジェイ=ブレニヤーの紡ぐ物語には、どれも「人種問題」「格差社会」、そして「ディストピア」という要素が組み込まれていて、それはガーナ系移民の子としてアメリカで育った彼がこれまでに見てきたもの、考えてきたことがベースになっているのだろう。ただ、彼はそれらの問題をストレートに提示してはこない。さまざまな制約や理不尽なまでの差別、そして暴力に晒された人間が、何を考えどのように行動するのかを冷徹に見つめ、分析しているのである。

 翻訳について。『ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝』『ヒップホップ・ジェネレーション』などの翻訳があり、またハワード大(全米屈指の名門黒人大学)を卒業されている押野素子氏だけに、著者の意図をよく汲み取った翻訳になっているのではないかと思う(もちろん、私は英語が読めないので、想像でしかないのだが)。しかも読みやすい。

 なお、表題作は映画になる予定とのこと。差別、暴力、格差など、現代アメリカが抱える問題をディストピア的要素を織り込みつつ描く、ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの世界観を、どのように映像化するのか。楽しみに待ちたい。

 

 翻訳ミステリー読者賞への投票していただいたみなさま、どうもありがとうございました。今回は、Twitterで98票、メールで62票、合わせて160票の投票をいただきました。結果については前からお知らせしておりますように、5月16日、第11回翻訳ミステリー大賞の発表に合わせて公開する予定です。

 なお、5月16日の結果発表に先立ち、投票された全作品を読者賞のサイトにて公開いたします。こちらは5月に入ってすぐくらいを予定しております。順位の予想をするもよし、これからの読書計画を立てるもよしです。こちらも楽しみにお待ちください。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。