ジョン・ロンソン『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』(夏目大訳 光文社新書)に、こんなエピソードが紹介されている。

 飲酒運転による交通事故で少女を死なせてしまった男が、裁判で百万ドルを超える賠償金を支払うよう命じられた。少女の両親は男に「18年間、毎週金曜日に少女の名前で1ドルの小切手を送るのであれば、賠償金を936ドルに減らしてもいい」ともちかけた。男はその申し出に感謝し、毎週金曜日に1ドルの小切手を送り続けた。

 しかし何年か経つと支払いが滞ってきたので、少女の両親は再び男を告訴した。男は、毎週毎週少女の名前を書くたびに心が引き裂かれ辛くてたまらないと言い、残りの期間に1年分を加え、まとめて少女の名前を書いた小切手を渡すので、これで許してほしいと懇願した。

 両親はこの申し出を拒否した。

(ジョン・ロンソン『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』第四章より筆者要約)

 量刑としては明らかに軽いはずであった週1ドルの送金が、男を結果的により苦しめることになるのをこの両親はおそらく知っていたのだろう。だから男の懇願をはねのけたのだ。しかしだとしたら、罰とはいったい誰のために、何のために課せられるものなのか。この男のように、量刑の重さが罪に苦しむ度合いと無関係であるのなら、仮に刑罰を逃れることができたとしても、人は罪の苦しみから逃れることはできないのだろうか。

 フェルディナント・フォン・シーラッハ『刑罰』(酒寄進一訳 東京創元社)は、デビュー作『犯罪』、そして第二短編集『罪悪』の流れを汲む短編集である。12の短編からなる本作は、さまざまな罪のかたちを描いた過去2作の流れをさらに推し進め、刑罰を免れた罪について注目し、それを抱えた人々の人生を淡々と描いている。

 たとえば冒頭の「参審員」。田舎で生まれ育った少女が両親の離婚に伴いボンに引っ越し、その後大学へ進学し、ある財団で働くようになるまでを、彼女が抱えている問題を示唆しつつ一気に描く。そんな彼女に参審員の任命通知が届き、ある夫婦のDVに関する裁判に参審員として出廷した日の出来事が、今度は細かく描かれる。夫から暴力を受けた妻の証言を聞き、彼女に起こった変化。罪を犯したのは暴力を振るった夫だけであるにもかかわらず、彼女の中に罪の意識が巣食うのはなぜか。

 たとえば「青く晴れた日」。自分の子どもを殺害したとして三年半の禁固刑に処された女性が、出所後に夫をも殺害したとして逮捕される。たった数ページという短さであり、最小限の会話や行動のみが描かれているだけにもかかわらず、女性の犯した罪と、その人生の哀切さが最後の一行に込められる。

 たとえば「友人」。弁護士の「私」が描く、幼なじみリヒャルトの退廃的な暮らしぶり。その理由を聞かされた私は「この件で君に罪はない」とだけ声をかける。それに対して「だけど、罰は受けるしかないんだ」と返すリヒャルト。存在しない罪に苛まれ、罰されることを望んだ男が取った行動は、「私」のその後の人生に大きな影響を与えることになる。作中の「私」は、著者自身を反映したものと受け取ることも可能で、あたかもデビュー短編集『犯罪』の誕生前夜に立ち会っているかのような感情が湧く。

 こんなふうに、一人の人間がその人生において抱えることになった罪を描き、そこから「罰されること」あるいは「罰されないこと」の意味を、読む者に問うていくような短編が並ぶ。それだけに、これまでのシーラッハ作品と比べるといくぶん割り切れなさを感じるところもあるが、そこはシーラッハの新しい「味」と理解したい。

 ミステリとして読むなら、酒で身を持ち崩した弁護士が、再起をかけて夫殺しの弁護に挑む「逆さ」や、「隣人」における魔が差すという言葉では説明できない怖さ、出産に立ち会ったあと、次第に様子の変わっていく夫についていけなくなった妻を描いた「ダイバー」などがおすすめである。

 シーラッハの作品はどれを取っても、一文一文が短く、多くを語らず、ギリギリまで抑制されている。しかしその行間には罪を抱えることの苦悩と孤独が色濃くにじみ出ていて、本作も200ページほどの分量でありながら、作品のひとつひとつとじっくり向き合うことが求められる。

 とにかくいま、上質の短編を読みたいと思うなら、シーラッハを手に取れば間違いないと断言する。そしてそれは、この優れた短編作家の持つ文体の魅力を余すところなく訳しきった酒寄進一氏の訳業によって支えられていることを付け加えておきたい。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。