まずは“味”がじゅわーっと広がり、それからぞくぞく感がはじまる。おーいい感じ。あったかい血が全身にゆきわたる。でも“味”がいつもより強くなってくる。強すぎて、気持ち悪くなってくる。ああ、来る来る。いつもの、死ぬときのあれだとわかる。耳が鳴る。
※原文は「死ぬ」に傍点あり

 ニコ・ウォーカー『チェリー』(黒原敏行訳 文藝春秋)の冒頭、主人公である「俺」がヘロインを注射するシーンからの引用である。

 CT検査のときに使う造影剤という薬剤がある。これはヘロインと同じく血管に注入して用いるのだが、急速に注入すると血管の拡張によって体がものすごく熱くなる。「俺」が感じている感覚はこれに近いものだろうか。いや、たぶん違う。もっと気持ちのいい感覚に違いない。体が熱くなるだけでは気持ちよくなったりはしない。

 以前、必要があってアルコール依存症について調べていたとき、「依存とは自分であり続けることからの逃避である」という意味合いの文章を見かけた。なるほどそう言われてみればそれっぽい言いようではあるが、しかし自分であり続けるとはどういうことか。自分であり続ける=生きることではないのか。だとしたら、そこからの逃避とはなにか。そんなことを考え始めるとわけがわからなくなる。

 中島らもの『今夜、すべてのバーで』にはこんな一文がある。

“依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。何かに依存していない人間がいるとしたら、それは死者だけですよ。

 ここでは、依存を人間そのものだと断言する。生きている以上、人はなにかに依存していると言う。これもまた、わかるようでわからない。なにかに依存したことのない、というかその自覚のない人間に、依存の本質がわかるはずがないとも言われているような気がする。

 ヘロインを注射した「俺」はこのあとぶっ飛んで意識を失ってしまう。同じくヤク中の彼女の「ちょっと残しとくほうがよくない?」というアドバイスを無視して、全部注入してしまったからだ。打ったあとすぐは気持ちよくて、でもそのあと気持ち悪くなってきて、しまいには意識を飛ばしてしまう。死ぬ可能性さえあるとわかっているはずなのに、なぜ量を調節できないのか。いや、そもそもなぜ打つのか。私には「俺」の心理がまったく理解できない。彼に「依存とは?」と問うといったいどんな答えが返ってくるのだろうか。

 ニコ・ウォーカーは、大学生のときに志願兵となり2005年からイラク戦争に従軍、陸軍衛生兵として現地でさまざまな任務をこなし、1年ほどで帰国。その後PTSDを発症。恋人とともにヘロイン漬けの日々を送ることになる。仕事もなく収入もないウォーカーは、やがてドラッグ代ほしさに銀行強盗に手を染める。4ヶ月間で10件の銀行強盗。11件目でようやく逮捕され、いまも刑務所に服役中。『チェリー』は、ウォーカーが服役中に書いた小説第一作だが、小説というよりはむしろ回想録のような趣の作品である。

 内容は大きく「俺」の大学時代、イラク従軍時代、帰国後のヘロイン漬けの日々、という3パートに分けることができる。ウォーカーのプロフィールを見れば、本作がイラク戦争に対する批判やドラッグ蔓延社会への警鐘という目線で書かれていてもおかしくはないと思うだろう。しかし、実際に描かれているのは、「俺」がどれほどクズな生き方をしてきたかであって、どのページをめくってもそればかりだ。国や社会に対する批判的な目線はこれっぽっちもない、ある意味清々しささえ感じるその書きっぷりは、小説を読むことに何らかの意味を求めたがる私たちを嘲笑しているようにも見えるし、また、ウォーカー自身が内省を試みているようにも見える。

 一般人から見れば驚くべき体験をしているのに、そのことについての懊悩が描かれるわけでもなく、社会への怒りも批判的視点もなく、ドラッグ依存に関する知見もない、ただ自らのクズっぷりを披露するだけの小説に、なぜこんなに惹きつけられるのか。それはおそらく、この小説全体を包んでいる哀しみと弱さに絆されてしまうからだ。大学にいても、イラクで即席爆発装置に吹き飛ばされた仲間を目の当たりにしていても、ドラッグに溺れていても、銀行強盗をしている最中であっても、ウォーカーは「俺」を通してそこで見えたこと、聞いたこと、感じたことをまるで独り言のように繰り出していく。その、何も整えられていない粗雑で生々しいつぶやきの羅列が、いつしか読む者の心を捉えてしまうのだ。そのような思いで冒頭のシーンを読み返すと、ただヘロインによる快楽を表現しているだけではなく、ウォーカー自身が見据えているはずの哀しさ、諦念、無力感が、私にもうっすらと見えてくるような気がするのである。

 ドラッグ、従軍、銀行強盗、そして収監というキーワードで彩られた青春の日々。「俺」がその日々をどのように受け入れていったのか。その顛末をぜひご自身の目で確認していただきたい。

 最後に翻訳について。本作における訳文の畳み掛け方は実にすばらしい。「俺は言った」「俺は電話した」「俺はうなずいた」など、俺は〜〜したという短文の羅列は、先に書いた粗雑さと生々しさを十二分に伝えているし、全体としてちょっとだけブコウスキーを彷彿とさせる。そのこともまた、本作が私の心を捉えている一因なのかもしれない。

 訳者あとがきによれば、ウォーカーはこの11月に仮出所とのこと。次作がもしあるのなら、ぜひ読んでみたいと思う。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。