週末で客のごった返すローラースケートリンク、元夫であり警察署長でもあるジェフリーを待つサラと、その妹テッサの会話から物語は始まる。
ジェフリーの浮気が原因で2年前に離婚した二人が、またこのところ会うようになってきているのをからかうテッサを尻目に、サラはトイレに向かう。ちょうどそこに現れたばかりのジェフリーも、グラント郡警察からのポケベルに対応するためその場を離れ、サラはトイレの前で自分の患者である13歳のジェニーとすれ違う。どこか様子がおかしいと思いつつジェニーを見送ったサラだったが、その後触れたドアノブに、べったりと血がついていることに気づくのだった。一方、公衆電話から警察に連絡を入れたジェフリーは、通信係と話している最中、少女の叫び声を聞く。その声に反応したジェフリーの目に飛び込んできたのは、怒りに満ちた少女が少年に向けて拳銃を向けている様子だった。服を血まみれにしたままそこに駆けつけたサラは、拳銃を持った少女がさっきすれ違ったジェニーであることを知ると、ジェフリーとともになんとか銃を下ろすよう説得する。しかしジェニーは銃を下ろすどころか、ジェフリーに対して自分を撃つよう懇願する。そうしてくれないのなら、目の前の少年を撃ったあと自らを撃つと彼女は言うのだった。誰も発砲しないまま事を収めたいジェフリーだったが、結局のところジェニーを止めたのは、ジェフリーが彼女に向けて放った銃弾だったのである。
サラが血まみれとなってしまった原因はトイレに流された妊娠28週ほどで産み落とされた子供だった。小児科医でグラント郡の検死医でもあるサラは、この子供を産み落としたのが、少し前にトイレですれ違った13歳の少女であったという事実に打ちひしがれたまま、この子供の身体をなんとかひとつに、もともとあったようにつなぎとめようとする。ジェフリーもまた、あのままだったらいつか本当に、少女は少年を撃っただろうかという、答えを出しようのない問いに苛まれてしまう。
一方、射殺されたジェニーの身体には、解剖によって自傷行為や異常骨折の痕があることがわかり、レイプなどを含む虐待によるものと考えられたのだが、やがてジェニーの下腹部には、出産できないような処置が施されていることが判明する。
カリン・スローター『ざわめく傷痕』(田辺千幸訳 ハーパーBOOKS)の冒頭、たった60ページ弱で提示される内容を要約するとこのようになる。トイレに流された子供はいったい誰の子供なのか。その父親は誰なのか。ジェニーはなぜ少年に銃を向け、怒りを顕わにしていたのか。というのが本作におけるメインの謎となる。
カリン・スローターといえば、ハーパーBOOKS他で刊行されている〈ウィル・トレント〉シリーズでおなじみだが、その第一作『三連の殺意』(多田桃子訳 マグノリアブックス)から遡ること5年前、2001年に刊行されたデビュー作『開かれた瞳孔』(北野寿美枝訳 ハーパーBOOKS)に次ぐ、〈グラント郡〉シリーズの二作目となるのが本作である。『三連の殺意』が本国で刊行されてからおよそ10年後の2016〜17年ごろから、〈ウィル・トレント〉シリーズが次々に邦訳され、カリン・スローターは日本でも大注目の作家となったわけだが、この〈グラント郡〉シリーズはというと2002年に『開かれた瞳孔』が邦訳されて以来、日本への紹介が止まったままとなっており、『開かれた瞳孔』も品切れ状態が続いていた。しかし2020年の初めにまず『開かれた瞳孔』が復刊。そして12月、待望の続編がようやく読めることに。実に18年ぶりの「シリーズ再始動」となったのである。
カリン・スローターは容赦ない。
作品を読むたび、私はそう感じる。13歳少女の射殺、その少女が受けていたであろう虐待の痕と下腹部に施された処置、そしてトイレに流された未熟児など、本作でも冒頭からショッキングな事実が早々に提示されており、その容赦のなさはデビュー二作目にしてすでに備わっていたものだと、〈ウィル・トレント〉シリーズをご存知の読者にとっても改めて実感できることだろう。著者が一貫して描き続けているのは「弱者の痛み」である。以前、この「読者賞だより」で〈ウィル・トレント〉シリーズを取り上げたとき(2018年6月)、私はこう書いていた。
どの作品も、弱者が圧倒的な力によって虐げられ、暴力と陵辱の限りを尽くされる様が描かれます。ときに読むのが辛いほどのシーンもありますが、これら被害者となる弱者(少女、娼婦、知的障害者、貧困にあえぐ人々など)とその家族の苦しみや痛みもまた丹念に描き切ろうとする著者の姿勢は、同じようにさまざまな痛みを抱えながら事件と向き合っていくウィルを始めとする登場人物たちを通して、単なる猟奇犯罪小説とは異なる味わいを私たちにもたらします。
著者が描く「痛み」は、単に肉体的な痛みに留まらない。「痛み」は人の肉体を貫き、ときに人の精神を焼き尽くさんばかりの苦しみを与える。著者はその苦しみのなかで喘ぐ人々に焦点を当て、残酷なまでにそれを浮き彫りにしていく。肉体の痛みなど、そこから引き起こされる苦しみの端緒に過ぎないと言っているかのようでもある。
本作においては、事件の全容が明らかになるにつれ、ティーンエイジャーたちが大人によっていかに苦しめられたかという凄惨な事実が浮かび上がってくる。信頼すべき存在であるはずの大人たちによって、選択の余地なく地獄に叩き落された子どもたちの苦しみを、私たちは直視することを求められている。
と同時に、早産の子供を救えなかったばかりか、自分が診ていた少女に虐待の疑いがあったことにも気づけなかったサラ。少女を射殺したという事実を乗り越えられないまま捜査を続けるジェフリー。そしてもうひとり、過去に監禁暴行を受け(『開かれた瞳孔』を参照のこと)、精神的状態が危ういまま仕事を続ける女性刑事レナ。それぞれに傷を持つ三人の愛憎入り交じる心理状態が、シリーズを通して濃密に描かれるのもポイントであり、この関係が今後どのように変化していくのか、というのも興味深い。〈グラント郡〉シリーズは全6作。以降、主要人物たちが〈ウィル・トレント〉シリーズに合流していくのはすでにご承知のとおり。だがまずは、この〈グラント郡〉シリーズが次作以降も続けて刊行されることを期待している。私は、〈ウィル・トレント〉シリーズ第3作の『ハンティング』に登場するサラが、どのような運命に見舞われた末にウィルと出会ったのか、というところにとても興味があるのである。
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というようなことを実は、4月18日に開催された「第9回翻訳ミステリー読者賞結果発表オンラインイベント」オススメ本紹介のコーナーでお話したかったわけですが、時間が圧倒的に足りなかったため、この場を借りて紹介させていただきました。
改めて、第9回翻訳ミステリー読者賞に投票していただいたみなさま、本当にありがとうございました。投じていただいた142票のなかから第1位に選出されたのは、ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(友廣純訳 早川書房)ということになりました。オンラインイベントの模様はYoutubeにて配信中ですので、お時間のあるときにぜひごらんください。
また、翻訳ミステリー読書会のサイトでは、投票された65作品すべてを載せたPDFを配布中です。どんな作品に票が入ったのかを確認するだけでなく、これまで意識していなかった作品に目を向けるいいチャンスでもあると思います。これからの読書計画のおともに、このPDFを活用していただけるととてもうれしく思います。
投票という形式を取っている以上順位はついてしまいますが、順位以上に私たちが大切にしているのは、1票とか2票というような得票の少なかった作品です。2020年も数え切れないほどたくさんの翻訳ミステリーが刊行されました。ここに名前の上がった作品は、そのなかから142名の方が「これだ!」という思いを込めて票を投じた作品です。私たちは、票の数イコール作品のおもしろさ、というわけではないと思っています。票が多かろうが少なかろうが、すべてが誰かのナンバーワンという意味において、みなさんの投じてくださった一票の価値は等しいと考えています。
これからもたくさんの翻訳ミステリーが刊行されるでしょう。私たち読者がたったひとりでそのすべてを手に取ることはできないかもしれない。しかし、読者賞やこの読者賞だより、あるいは全国でおこなわれている読書会が、みなさまのお手元に一冊でも多くの作品を届けるという役割の、そのほんの一部分でも担えることができたらと願っています。
2021年も、どうかみなさまの読書ライフが充実したものとなりますように。第10回の読者賞もがんばって企画いたしますので、みなさまのご支援をよろしくお願いいたします。
大木雄一郎(おおき ゆういちろう) |
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福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。 |
■〈グラント郡〉シリーズ■
■〈ウィル・トレント〉シリーズ■
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