東京五輪が始まって一週間が経った。開催については、今もなおその可否や意義についてさまざまな意見が出ていることはご承知のとおり。本当にいろんな意見があるなかで、やはり突出しているのはもちろん新型コロナウイルスの問題。けっして感染が下火になったわけではない状況で、海外から多くの選手関係者が来日するという事実や人の流れに与える影響などが、感染拡大に拍車をかけてしまうのではないかという懸念である。政府が何度となく繰り返す「安全・安心」という約束がどのような形で達成されるのかが大変注目されるところだが、このことは五輪が終われば明らかになることだろう(終わらなくとも明らかになっているかもしれないが)。

 そしてもうひとつは、とにかく今回の五輪に関して言えば、招致から開会した今に至るまで騒動続きだということ。ざっと思い出すだけでも買収疑惑、エンブレム問題、新国立競技場問題、組織委員会会長の女性差別問題、開会式責任者(振付師)の辞任問題、同じく開会式絡みでは女性の容姿に関する問題発言もあったし、開会式楽曲担当ミュージシャンの辞任や演出担当者の解任騒動は本当に本番直前の出来事だった。直前といえば、開会式に出演予定だったアフリカ人アーティストがキャンセルされたという問題もあった。

 これら騒動の根源がどこにあるのかと考えてみると、それはやはり差別に対する問題意識の欠如にあるのではないかと思う。他者を理解しようとする意識の欠如と言い換えてもいい。上に挙げた問題の多くは、性差別、容姿差別、人種差別といった差別意識が発端になっている。日本においては、憲法によって「法の下の平等」が謳われてはいるけれども、実際には、報道によって大きく伝えられるレベルのものから日常生活表現の類に至るまで、さまざまな差別にまみれた状況であると言わざるを得ず、海外ではこれを「深刻な状況」だと捉える向きもある。

 そのような現代を私たちは生きている、ということを踏まえたうえで、今回は、ステフ・チャ『復讐の家』(宮内もと子訳 集英社文庫)を紹介したい。

 主人公は二人。一人は元ギャングの黒人ショーン。40歳を過ぎた今でこそ運送会社でそこそこのポジションを得て真面目に働いているが、ギャング時代には収監された経験があり、同じくギャングだったいとこのレイは最近仮出所したばかり。レイが獄中にいる間は、ショーンがレイの妻子と母親(彼にとっては伯母)の面倒を見ていた。ショーン自身の両親はすでに他界しており、姉のエイヴァもある事件によって28年前にこの世を去っている。

 もうひとりの主人公は、韓国系アメリカ人のグレイス。薬学部を出た彼女は両親が経営する薬局で働いている。母親と絶縁状態にあるミリアムという姉がいるが、グレイス自身は定期的にミリアムと会っている。ミリアムは、警官に射殺された黒人少年の追悼集会に出席するなど人権意識が高く、マイノリティがしばしば見舞われる理不尽に対して抗議する姿勢を貫いているが、グレイスはどちらかというと現実から目をそらし、理不尽に対しても極力無関心でいようとする。しかし同時に、そのような自分の身勝手さを卑下する気持ちも抱えている。

 物語は2019年の6月から9月までの、ショーングレイスそれぞれの暮らしを描く形で進んでいくが、その合間に1991年から92年にかけて起こった事件を短く挿入していく。その事件のひとつは91年4月に起こったロドニー・キング事件と、それに続く92年4月のロサンゼルス暴動。もうひとつは、ショーンの姉エイヴァを死に至らしめたある事件だ。

 その事件とは、1991年3月、グレイスの母親が当時夫とともに経営していた食料品店で店番をしていたときに、客として訪れたエイヴァを万引きと思って背後から銃で撃った事件である。まだ16歳だったエイヴァは命を落とし、グレイスの母親は裁判の結果有罪とはなったものの、社会奉仕と罰金のみという軽い刑で済まされ、被害者の遺族には強い遺恨が残ってしまう。

 エイヴァが射殺された事件は、グレイスの姉と母親との確執の原因にもなっていたのだが、グレイスは、自分が生まれる前に起こったこの事件のことを誰からも聞かされていなかった。28年後の2019年になって、ある衝撃的な事件をきっかけに、彼女はようやく母親の過去を知ることになる。このことは、無関心を装っていたグレイスのなかにある変化をもたらすと同時に、本来交わることのなかったはずのグレイスショーンを引き合わせていくことになる。

 作中描かれる、ショーンの姉エイヴァが射殺された事件は、1991年3月に起こったラターシャ・ハーリンズの事件をモデルとしている。当時15歳だったハーリンズは、エイヴァが射殺されたのと同じ状況で韓国系アメリカ人によって射殺された。作中の事件と同じく、裁判によって有罪とされながらも収監されなかったという結末は、人種間の緊張を高める要因となり、のちのロサンゼルス暴動につながっていく。事実、ロサンゼルス暴動では、韓国系の店舗が多大な被害を受けた。本作においても、ロサンゼルス暴動のなか、ショーンが友人とともに韓国系食料品店を襲う様子が描かれている。このようなことから本作は「史実」と「史実に基づくフィクション」の2つを織り交ぜながら、韓国系移民と黒人、アメリカにおいていずれも弱者と位置づけられさえする2つの人種のあいだに横たわる問題について描いた小説であると言えよう。

 本作のもうひとつの軸は、タイトルにもなっている「復讐」である。法による裁きに納得のできないとき遺族はどうするのか。あるいは、法によって(その罪に比して)まったく軽い量刑で済まされてしまった加害者の、本当の贖罪とはなにか。グレイスショーンは、二人を引き合わせることになったある大きな事件に直面したあと、この正解のない問いをそれぞれが抱えてしまう。二人は本作のラストで、ロサンゼルス暴動もかくやと思わせるような大きな暴力と混沌の渦に巻き込まれ、正解は見つからずとも、迷いつつ次の一歩を踏み出そうとする。

 歴史上何度も繰り返された暴動も、ただ暴力による破壊だけがあったのではない。それは人々にとって確実に、再生のための希望であった。破壊のあとには再生があると信じて何度も繰り返されてきた暴力のあとに、いま、本当の意味での再生が彼らの上にもたらされたのだろうか。答えようのない問いを、著者はそのまま読者に突きつける。

 改めて、差別意識というものを考えてみる。人とは、多かれ少なかれ他者を受け入れられなかったり、排除したりという意識を持つものだと私は思う。自分に理解できない他者を切り捨てることは容易であり、安易だ。本作が伝えようとしているのは、他者とも共存していく手立てを考えていくこと、つまり自分の持つ差別意識を受け入れ、他者を少しでも理解できるよう自らを導く努力をすべき、ということなのではないだろうか。そしてそれをどう実現するかが、私たちひとりひとりに問われていることなのである。

 ラターシャ・ハーリンズの事件については、『ラターシャに捧ぐ 〜記憶で綴る15年の生涯〜』というドキュメンタリー映画で知ることができる。こちらはNetflixで配信されており、また20分ほどの短い映画なので、興味のある方は本作と同時にぜひ。

 

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。