ヴィエト・タン・ウェン『シンパサイザー』(上岡信雄訳 ハヤカワ・ミステリ文庫)は、主流小説としての評価はもちろん、ジャンル小説としても高い評価を受けた。そのことはピュリッツァー賞とエドガー賞の同時受賞という快挙によって示されたわけだが、じゃあこの作品の魅力をひとことで説明せよ、と言われるとちょっと戸惑いを覚える。

 ヴェトナム戦争終結直前のサイゴンで、秘密警察の大尉として主にスパイに対する尋問に従事していた「語り手」は、CIA仕込みの尋問テクニックとその語学力で頭角を現していた。しかしこの「語り手」、実は北ヴェトナムのスパイであり、南ヴェトナムの秘密警察に関する情報を北に流しているダブル・エージェントだった。「語り手」にはサイゴンの寄宿学校時代に義兄弟の契りを交わしたマンボンという親友がいるのだが、「語り手」とマンはこのときすでに共産主義に傾倒していた。ただひとり、ボンだけがそれを知らないまま、反共産主義を貫くことになる。

 サイゴン陥落がほぼ確定的となり、南の将軍がアメリカに脱出する決意をすると「語り手」もまた、ボンとともに将軍に同行することになる。アメリカで体勢を立て直し、祖国奪還の機を伺うという将軍の意向に同調しつつ、北ヴェトナムには将軍の動向を逐一報告し続けるのだった。『シンパサイザー』は、このようなスパイ小説らしいスリリングなストーリー展開に加え、随所に差し込まれる「語り手」の哲学的思索によって独特のおもしろさと奥深さを生み出した、大変懐の深い作品だと言えるだろう。

 今回は、その続編を紹介したい。昨年12月に刊行された『革命と献身 シンパサイザーⅡ』(上岡信雄訳 早川書房)である。

 前作でダブル・エージェントとして暗躍した語り手たる主人公とその義兄弟であるボンは、ボートピープルとしてインドネシアの難民キャンプにたどり着き、そこでしばらく過ごしたのち、1981年、パリに渡る。そこには以前からスパイとして連絡を取っていた伯母(実はマンの伯母)がおり、その伯母を頼ったのである。主人公は、植民者としてベトナムに渡ってきたフランス人司祭と現地女性との間に生まれた婚外子であり、そのことによる精神の二重性を自覚していた。その二重性は前作における苛烈な経験からより強まっており、続編ではその言動にも色濃くにじみ出てくる一方、自身のアイデンティティはどちらにも振り切れないまま宙ぶらりんの状態でもあった。この二重性は、作中さまざまな形で言及されており、大きなテーマのひとつとなっている。

 主人公ボンは、難民キャンプで知り合った中国系ヴェトナム人の「ボス」に会いに行く。一足先にパリに入り、ビジネスを展開していたボスは、二人に仕事を紹介するという約束になっていたのだった。主人公はここから麻薬の売買に手を染めていくことになる。伯母を通してパリの知識層にも販路を広げていった主人公だったが、アラブ系ギャングの縄張りを侵害していたことから抗争へと発展することになる。

 一方マンは、前作で北ヴェトナムの人民委員となっており、主人公とボンを拷問するという立場にあった。本作でもその立場は変わっていないのだが、ある理由からパリを訪れることになり、主人公とボンに接近することになる。人民委員の正体がマンであるということを知らないボンは人民委員への復讐を誓うが、その正体を知っている主人公は、ボンとマンの双方を救うべく策を講じようとする、というのが大まかなストーリーである。しかしこれだけでは、実際のところこの長大な物語の筋書きの半分も説明できていないだろう。パリにおけるヴェトナム人同士の交流や、主人公らの恋愛など、エンタメ要素に富んだエピソードに加えて、前作同様の哲学的思索が加わることで、かなり風変わりな印象を与える作品となっている。

 好きなエピソードがある。主人公がアラブ人ギャングにつかまり、拷問を受けたあげくロシアンルーレットをさせられる場面。ここで主人公は、内なる(もう一人の)自分と対話しながら、引き金をどんどん引いていく。そのあと主人公たちは、また別の機会にアラブ人を監禁し、逆に拷問をしかけるのだが、なんとここで主人公はアラブ人を赦すのである。

 死と生還(復活)、そして赦し。これではまるでイエス・キリストである。著者は主人公をイエスになぞらえて何を語ろうとしたのか。フランス人の父とヴェトナム人の母を持つ主人公が象徴するのは、フランスの植民地支配の記憶である。ヴェトナムにいてもパリにいても、またアメリカにいようとも、居場所というもののない主人公が、どのような形で救われていくのかを描くことによって、ヴェトナム人にとっての革命とはなんだったという問いに対する、難民の経験もある著者なりの答えを導きだそうとしているのではないかと感じるのである。

 本稿の冒頭で、前作『シンパサイザー』について《この作品の魅力をひとことで説明せよ、と言われるとちょっと戸惑いを覚える》と書いた。前作に比べたら娯楽的な要素も強く、長大な作品ではあるが一気に読み通すことのできるおもしろさ。麻薬売買におけるギャング同士の抗争を軸におきながら、パリにおけるさまざまな層の対立を描き、前作同様主人公の長広舌で独特な味付けをした本作をひとことで言い表すなら、そう、紛れもないノワールだ。本作は(前作『シンパサイザー』も含めて)、ノワールをお好きな人にとって読み逃してはならない作品のひとつなのである。

 訳者あとがきによれば、この続編も構想中とのこと。どのような展開になるのかちょっと予想もつかないが、刊行を楽しみに待ちたい。

 

 本日より、第10回となる翻訳ミステリー読者賞の投票が始まりました。始めたときはここまで続けられるとは想像もしていませんでした。毎回投票をしていただいているみなさまに支えられた10年だったと、心より感謝する次第です。今回も盛大に盛り上げていきたいと思いますので、みなさまの熱い投票をお待ちしております。

 2021年1月~12月に刊行された海外ミステリー作品であれば、どんな作品でも投票可能です。順位こそつきますが、この1年でどのような作品が読まれたのか、まだ私の知らないたくさんの作品を教えてほしい、そのような気持ちで10年続けてきました。たった1作しか読んでないという方も、臆せず投票してください。あなたが読んだ作品は、きっと誰かがまだ知らない作品なのです。

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大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。