カミーラ・シャムジー『帰りたい』(金原瑞人・安納令奈訳 白水社)は、イギリスに住むムスリム、特にパキスタン系移民の生きづらさを正面から描いた、とても衝撃的な作品です。

 パキスタン系イギリス人女性のイスマは、アメリカの大学で学ぶためイギリスを離れ、マサチューセッツに向かう飛行機に乗るためヒースロー空港に向かうのですが、すんなりと搭乗することはかなわず、取調室でスーツケースを開けられ、普通の出国ではおそらくされないであろうさまざまな質問を受けます。

「あなたは自分を、イギリス人だと思いますか?」男はたずねた。
「わたしはイギリス人ですが」
「いえ。あなたは、自分をイギリス人だと思っていますか?」
「ここで生まれ育ちました」。イスマが言いたかったのは、自分の国だと思える国はイギリス以外にないということだ。今の答え方ではあいまいだ。
(十~十一ページより引用)

「イギリス人ですか?」ではなく、「イギリス人だと思っていますか?」という質問。国籍を問うだけならパスポートを見ればわかります。が、イスマがこのような質問をされるのは、アジア系の見た目だからです。彼女はイギリス籍を持っているにもかかわらず、このあとも同性愛や民主主義、イスラエル問題、イラク侵攻などなど、イギリス人としての考え、イギリス人としての自覚を問うような質問を二時間近くも受け続け、ようやく解放されたときには搭乗するはずの飛行機は離陸したあとでした。

 それでもなんとかマサチューセッツにたどり着いたイスマは、同じくロンドンから来たというパキスタン系の青年エイモンと出会います。ジハード戦士としてボスニアに渡り、収容所への移送中に病死した父を持つイスマに対して、イギリスの国会議員を父に持ち、不自由のない生活を送っているエイモンは、まったく正反対といっていい境遇にありました。イスマの出自を知ったエイモンは、イスマの苦悩を理解し寄り添おうとしますが、父が内務大臣に任命されたという報を受けイギリスに帰国することになります。その後エイモンは、ロンドンでイスマの妹アニーカに会い、二人は熱烈な恋に落ちるのですが、そこでエイモンは、アニーカの双子の弟パーヴェイズがイスラム過激派にリクルートされ、イスラム国に参加しているという事実を知ることになります。

 パーヴェイズは、リクルーターに教えられたこととイスラム国での現実の違いに衝撃を受け、イギリスに戻りたいと思いアニーカと連絡を取るのですが、イギリスはすでに彼をテロリストとして認定しているため、ことは容易に進みません。

 イスマ、アニーカ、パーヴェイズの三きょうだい、そしてエイモンと、その父であり内務大臣でもあるカラマット、微妙に立場を違える五人の視点から描かれる物語は、パーヴェイズの救出を巡ってアメリカ、イギリス、シリアと舞台を変えながらスリリングに展開し、パキスタンの都市カラチで衝撃の結末を迎えます。アンティゴネを下敷きにしていると聞けば、ある程度結末を想像できる方もおられるでしょうが、それにしても衝撃的です。

 国家、国籍、個人、宗教など、人が生きるために大切なものひとつひとつについて深く考えさせられる作品だと言えるでしょう。

 と、今回紹介したいのはこれだけではなく、ここからはクラム・ラーマン『ロスト・アイデンティティ』『テロリストとは呼ばせない』(いずれも能田優訳 ハーパーBOOKS)を紹介したいと思います。『帰りたい』と背景を同じくするイギリス発のスリラーです。三部作の一作目と二作目に当たる作品ですが、今回は二作あわせて紹介することにします。

「7・7同時爆破事件」以降、ムスリムへの風当たりがとても強くなったロンドン。ムスリム・コミュニティのあるハウンズロウ地区で、麻薬の売人をしているパキスタン系イギリス人ジェイ・カシームは、週に一度だけ通っているモスクが何者かによって荒らされたことに怒りを覚えつつも、荒らした連中への仕返しを計画する同胞の集まりとは距離を置こうとします。しかし、幼なじみのパルヴェスがこれに参加しようとするのを止めようとして、結局は成り行きで仕返しに加担することとなり、心ならずも一人の白人を病院送りにしてしまいます。そんななかジェイは、麻薬密売容疑で逮捕されるのですが、MI5からの交換条件によって無罪となり、その後はMI5の一員としてテロ対策への協力を命じられることになります。やがて彼は、イスラム過激派グループの中枢に迫ることになり、そこで無差別テロの計画を知り……というのが一作目のあらすじです。

 一作目の事件後、麻薬ともテロとも無縁となり役所に勤め始めたジェイでしたが、ムスリムの少女が白人の差別主義者に暴行を受け、その後自殺に追いやられるという事件が起こり、彼の周辺がまた騒がしくなります。ジェイは、自分の知り合いでもあった少女の恋人が、差別主義者への復讐を企んでいるのではないかと察し、それを止めようと奔走することになります。一方で、ジェイにはイスラム過激派組織の刺客が送られ、自身気づかぬうちに再びトラブルの渦中に身を置くことに……という、これが二作目。

 先に断っておくべきだったんですが今言います。このシリーズ、一度読み始めると途中で止めることができない、いわば徹夜本です。とにかくめちゃくちゃおもしろい。もうそれだけ伝えたらあとは「読んでくれ!」で終わらせてもいいんですが、それでは納得できない人に向けて、以下に理由を述べます。

 まず一作目の魅力は、パキスタン系移民でありながら、その出自に疑問を持つこともなく麻薬の売人としてその日暮らしをしていたジェイが、ジハーディストとして目覚めていく友人を間近で見たり、MI5に協力するという経験を通して、ムスリムとしての矜持とイギリス人として暮らす自分との間で揺れ動きながらも、自らのアイデンティティとはなにか、ということに真剣に向き合う様を描く、いわば成長小説としての側面だと思います。

 そしてもちろん、MI5やテロ組織など、スパイ小説には欠かせない要素もしっかり描き込まれていますし、そういう世界にジェイという“いまどき”の青年を放り込むことによって冒険小説としての一面も持たせているという芸の細かさにも舌を巻くことでしょう。

 二作目は、一作目で描いたジェイのアイデンティティが揺れ動く様を、白人テロ組織に勧誘される少年と、ジェイへの刺客として送られたいわば同胞のパキスタン系イギリス人に転写する形を取り、イギリスにおける宗教問題、人種問題の複雑さをより深く掘り下げています。これは『帰りたい』で描こうとしている主題と根を同じくしています。で、重要なのは、テーマはより深刻になっているにもかかわらず、エンターテインメント度はびっくりするくらい増し増しになっているということです。一作目でも十分おもしろいのに、二作目はそれをやすやすと超えてくるおもしろさ。これは瞠目に値します。

 あと、一作目の最後がもう「そんなのあり?」と言いたくなるようなクリフハンガーになっているのもポイント。一作目、ラストのラストを読んでしまったあなたは、きっとすぐに二作目を手に取りたくなることでしょう。もし、一作目で止められる人がいるのなら、会って「なんでやめられるの?」と問いただしてみたいくらいです。

『帰りたい』と『ロスト・アイデンティティ』『テロリストとは呼ばせない』、これら三作品は共通する背景を持っているわけですが、それぞれに違った奥深さがありますし、日本で暮らす私たちにはまるで想像することもできない現実に触れさせてくれるという意味では、ぜひ手に取るべき作品だと思います。おもしろいというだけではない、心にちょっとした引っ掛かりを残すような三作品、読み逃す手はないですよ!

 最後にもうひとつ。「ジェイ=IWGPのマコト」と見ると、よりスムーズに作品の世界に入り込めるような気がするのですがいかがでしょうか。

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。Twitterでも随時情報発信中です(Twitterアカウント @hmreadersaward)。

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