以前当欄で紹介した、ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの「フィンケルスティーン5<ファイブ>」(『フライデー・ブラック』所収 押野素子訳・駒草出版)という短編は、二〇一二年二月に起きたトレイヴォン・マーティン射殺事件を下敷きにしています。これはフロリダ州サンフォードで、アフリカン・アメリカンの高校生トレイヴォン・マーティンが、ある晩コンビニに出かけたおり、見回りをしていたジョージ・ジマーマンによって射殺されたという事件です。事件当時、彼らの住んでいた地区は、黒人による強盗や盗難が多発していることを理由に、住民による自警団が結成されており、ジマーマンは自警団に積極的に参加していました。その後ジマーマンは逮捕されますが、事件の状況がフロリダ州の正当防衛法の要件を満たしているとされ、五時間ほどの尋問のみで釈放。その後の裁判でも無罪判決を得ます。この事件以後、SNSでは「#BlackLivesMatter」というハッシュタグが拡散され、人種差別に端を発すると思われるいくつかの事件を経て、ブラック・ライヴズ・マターはアメリカを中心として、世界的なムーブメントへと発展していくのです。

「フィンケルスティーン5」には、【ブラックネス(黒人らしさ)】という言葉が頻出します。アメリカに住む黒人は、どこに行くのか、あるいは誰と話すのかによって、自身の黒人らしさを調整しなければならないというのです。それは、主に白人との間に無用なトラブルを起こさないようにする自衛の策なのですが、改めて読んでみると、なぜ黒人だけがそのような配慮をしなければならないのかという疑問も湧きます。もちろん、人種差別によるものだということはわかるのですがそれにしても、という疑問です。

 その疑問に対する答えとなりそうなものが、『アメリカの黒人演説集』(荒このみ編訳 岩波文庫)の冒頭に置かれた、デイヴィッド・ウォーカー『ウォーカーの訴え』にあります。十八世紀後半から十九世紀始めを生きた黒人活動家が、一八二九年に記したこの「訴え」から、ふたつの文章を紹介します。

ジェファソン氏(第三代合衆国大統領)は世間に向かって、われわれの天賦の身体も精神も、白人に劣ると公言したのではなかったか。実に驚くべきことだ。あのように深い学識の、生まれつきの身体にも恵まれた人物が、鎖につながれた人間集団をそのように評するとは。(十三ページ)

白人たちは、われわれを奴隷制度の地獄の鎖につないでいるために、われわれが白人になりたいと、あるいはかれらの肌の色になりたいと、望んでいるにちがいないと考えている。それは大いなる誤解だ。(十五ページ)

 独立宣言の起草者であり、歴代大統領のなかでもその評価が極めて高いジェファソンでさえも、黒人に対する認識はこのようなものでした(一七八四年バージニア覚書のなかで、黒人は白人に劣るとの考えを表明しています)。

・黒人は白人よりも劣っている
・黒人は、白人になりたいと思っている
 
 この、二〇〇年以上に渡って続いてきたアメリカの奴隷制度に根付く白人の「黒人観」が、そしてその時代から今日まで連綿と続いている人種差別の歴史が、いまを生きる黒人たちに、本来不要であるはずのブラックネスという概念を植え付け、「差別の存在する社会」を内面化させているのではないかと考えられるのです。

 前置きが長くなりました。今回は、リチャード・ライト『ネイティヴ・サン アメリカの息子』(上岡伸雄訳 新潮文庫)を紹介します。この小説は、大恐慌後の不況にあえぐ一九四〇年に発表されました。奴隷解放宣言からおよそ八〇年、公民権運動の中心人物となるキング牧師やマルコムXの登場まではまだ十年余を待たなければならないなか、黒人差別を当然とする社会に一石を投じる形で刊行されたのです。日本には、『アメリカの息子』というタイトルで一九七二年に紹介され、その後は入手困難となっていましたが、五〇年を経た今年、新訳での刊行が実現しました。

 シカゴの貧困地域で育ったビッガーは、裕福な白人の家族、ドルトン家に運転手として雇われます。ドルトン家はこれまでも雇い入れた黒人に教育の機会を与えたり、黒人コミュニティに向けた多額の寄付をしたりなど、慈善家としても知られていました。ビッガーは、ここで一人娘のメアリーと出会います。共産主義に傾倒していた彼女は、黒人であるビッガーに興味を持ち、ある夜、共産党員のジャンとともに彼を外に連れ出し、黒人が行く店で、黒人が大勢いるなかで食事を取ります。白人からすればこの行為は、黒人に対する理解の表れかもしれませんが、ビッガーは白人がなぜこんなことをするのか理解できません。それでも、言われるままに食事をともにし、彼らを屋敷に連れ帰るのですが、酒を飲みすぎて泥酔状態となったメアリーは、一人で自室に行くことが難しく、ビッガーが手を貸さなければならないほどでした。ようやくメアリーを寝かせたところに、ドルトン夫人がメアリーの帰宅を確認しに入ってきます。ドルトン夫人は目が見えないため、ビッガーが近くにいることに気づきません。ビッガーは、自分がここにいることが知られることを恐れ、メアリーが声を出さないよう頭の部分を枕に強く押し付けます。そうして、なんとかドルトン夫人をごまかすことができたビッガーでしたが、そのときにはもうメアリーは息をしていませんでした。

 本作は三部構成となっていて、第一部「恐怖」はビッガーがメアリーを殺してしまうまで、第二部「逃亡」は殺人が露見し、逃亡の果てに逮捕されるまで、そして第三部「運命」では収監後の顛末が描かれます。

 第一部、第二部を通じて、ビッガーは自身の気持ちや考えを言葉にして表すことが不得手な青年として描かれます。言葉を発してもそれが自身の気持ちを適切に反映しているとは思えず、周囲の誤解を生み、そのことで常にストレスと怒りを内側に溜め込んでいます。その内面は、たとえば以下のように語られます。殺人を犯した翌日、実家で朝食を食べるシーンから引きます。

自分がやったことを思い、その凄まじい恐ろしさ、こうした行為と連想される豪胆さを思うことで、彼は自分が恐れている世界とのあいだに防護壁を築くことができた。恐怖に取り憑かれてきた人生で初めてのことだ。殺人によって、新しい人生が作り出された。それはすべて自分だけのものであり、生まれて初めて、他人に奪い取られることのないものを持ったのである。(一九一ページ)

 内面を言い表す言葉を持たない彼の気持ちを代弁しているかのような、著者による細かな内面描写は、著者自身の思いを強く反映させているかのようにも見えます。人を殺すことで、他人に奪い取られることのないものを持つという感覚は、今日の社会通念からすれば、やや理解し難い感覚なのかもしれません。しかし、社会が彼らを単なる「労働力」としてしか捉えておらず、白人社会との間に築き上げられた明確な壁が彼らの暮らしや言動を強く抑制している状況を考えると、言い換えれば常に恐怖に晒されているような生活を余儀なくされていたということを考えると、殺人によってビッガーが得たであろう充足感もまた、なんとなくではあっても理解できるような気がするのです。そして、黒人が晒され続けている恐怖と折り合いをつけるための手段が「ブラックネス」ではないかと思うのです。

 第三部では、ビッガーが捕らえられ、死刑判決を誰もが疑わない裁判において、一人の弁護士が彼の罪を少しでも軽減しようと奮闘する姿が描かれます。ビッガーが白人女性を殺したという事実は動かしようがないわけですが、この弁護士は裁判において、なぜ彼は殺してしまったのかを明らかにしようとします。殺人の動機については、取り調べによってすでに明らかにされているわけですが、それはやはり白人側の論理で書かれたものでしかありません。弁護士はビッガーとの対話から、なぜ彼は白人女性を殺さなければならなかったのという、真の動機を探り出そうとします。それは実は、第二部まででビッガーの内面描写の形を取って、私たちの前にすでに提示されているものです。弁護士はそのことを、裁判に注目している多くの白人たちにもわかるように説明しようとします。社会に蔓延する偏見と暴力からの解放、それはビッガーの命を助けることによってしかなし得ないのだという弁護士の叫びは、まさしくライト自身の思想を色濃く反映しているといえるでしょう。

 このような抗議小説としての側面や、あるいはこの小説が持つ、女性に対する男性主義的な目線に対して批判があることは承知のうえで、それでも本作は、ブラック・ライヴズ・マターという言葉が強く叫ばれる今日において、多くの人に読まれるべき作品だと考えています。

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡読書会世話人兼読者賞の実行委員。読者賞だよりは六年目に入りました。いつも読んでいただきありがとうございます!
これからもおもしろい作品を紹介するべくがんばりますのでよろしくお願いいたします!

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