本書『科学捜査ケースファイル――難事件はいかにして解決されたか』は推理小説ではなく、ノンフィクションですが、ミステリーがお好きなかたならきっと興味を持っていただける内容ですので、どうかしばらくおつきあいください。
 著者のヴァル・マクダーミドは英国を代表するミステリー作家で、欧米では大変人気のある作家ですが、日本では2012年の『迷宮の淵から』を最後に邦訳の出版が途絶えているため、知らないかたもおられるかもしれません。ですので、まずはマクダーミドについて簡単にご紹介いたします。
 ヴァル・マクダーミドは英国の炭鉱町生まれの作家で、もともとはジャーナリストでしたが、夢を追いつづけミステリー作家へと転身しました。出世作『殺しの儀式』は、英国推理作家協会(CWA)ゴールド・ダガー賞を受賞し、心理分析官トニー・ヒルと女性警部キャロル・ジョーダンが活躍するシリーズとして人気を博し、その後も続編が数年おきに出版されています。英国ではこれを原案として〈ワイヤー・イン・ザ・ブラッド〉というタイトルのテレビドラマも制作されました。
 2010年には、ミステリー界に貢献した作家自身に贈られるCWAダイアモンド・ダガー賞という栄えある賞も受賞しています。さらに、2014年には、一般の人々からの投票によって、名前を冠した死体保管所が英国の大学に誕生しました。さらにさらに、2016年には本書が、世界最大のミステリー・コンベンション、バウチャーコンのアンソニー賞最優秀批評/ノンフィクション賞を受賞しました。

 そんなミステリー界の巨匠が手掛けた今回のノンフィクションのテーマは科学捜査。血痕やDNA、指紋、毒物学、病理学など、ミステリーではおなじみの捜査手法が章ごとに解説されています。マクダーミドはそれぞれの専門家にインタビューし、検死の手順やDNA解析技術の初期の裏話など、現場の生の声を盛りこみながら、各分野を掘りさげ、驚きのエピソードを惜しみなく披露しています。
 たとえば昆虫学の章では、ハエが登場します。ハエは死体に最初に到着する昆虫で、蛆虫は脱皮を繰りかえして蛹へ、そして成虫へと成長するため、その成長段階を指標にして死亡時刻の推定が行われます。ハエを使った犯人探しは、実は中国の『洗冤集録(せんえんしゅうろく)』という13世紀から使われていた検死官のための手引きにも掲載されていました。ただここでは、ハエは死亡時刻推定の指標ではなく、警察犬のような役目を果たし、血が洗い流されたはずの凶器の鎌にとまり、犯人を知らせます。

 ほかにもピーター・ラヴゼイの『偽のデュー警部』のモデルとなった、本物の・・・デュー警部が活躍したクリッペン事件の意外な顛末や、切り裂きジャックなど超有名どころの古典的な事件も拾い、微量の検体で行なえるDNA解析やデジタル・フォレンジックなど最新技術にも迫っています。
 今野敏氏が書いてくださった推薦の言葉にあるとおり、まさに「眼からウロコ、の連続」で、髪の毛が逆立ちそうなゾッとするエピソードが満載です。しかも魅力はそれだけではありません。水浸しになった火災現場で焦げ臭さに耐えながら火元や出火原因を探る火災調査官や、紛争で亡くなった人々の墓を掘り返して身元を識別する人類学者など、現場で人の死に真正面から向きあう学者や捜査官たちの働きぶりには、頭が下がりますし、胸にぐっとこみあげるものがありました。
 手練れの作家ならではの、小説に負けないほどドラマティックで読みごたえのある作品です。ぜひ手に取っていただけたら、非常に嬉しく思います。
 最後までおつきあいくださってありがとうございました。

久保美代子(くぼ みよこ)
 翻訳家。おもな訳書は『モンキー・ウォーズ』(あすなろ書房)、『ダウントン・アビー 華麗なる英国貴族の館』(共訳、早川書房)、『自助論』(アチーブメント出版)など。
 夏の楽しみのひとつは茗荷。子供のころはたらふく食べて、「物忘れするよ」とよく言われました。だから忘れっぽいんですね、きっと(ちゃうやろ)。
■担当編集者よりひとこと■

 まさか本サイトに新刊紹介を掲載していただく日がくるとは、思ってもいませんでした。
 小社は理工系の出版社ですので、扱うテーマは科学に関係したものばかり。これまでにミステリーを刊行したことはありません。しかし、科学とミステリーはまったくの無関係とはいえないと思っています。そもそもサイエンス自体が自然現象などの謎解きそのものですし、ミステリーの重要な構成要素に科学的な知見が絡んでくる作品は数知れず、四肢麻痺の科学捜査の天才が主人公の人気シリーズでは、微細証拠物件を分析機器で調べるといった具合です。そんなことを考えているミステリー好きの編集者が、ミステリーの巨匠が著した科学捜査のノンフィクションの存在を知ったことから、本書の翻訳出版が実現しました。

 さて、本書の魅力については久保さんが手際よくまとめてくださっていますので、蛇足を承知でおすすめポイントをいくつか。
 まずなんといっても緊迫感。第1章の冒頭「コード・ゼロ。至急応援を求む」の一文から一気に引き込むうまさは、さすがベストセラー作家です。現場に居合わせた警察官、科学捜査官の証言を交えながら再現される事件発生時の様子は緊迫感に満ちています。またその後も、実際に発生した奇っ怪な事件が次々と繰り出されるので、良質なミステリーを読むのと同様の読書体験ができること請け合いです。
 つぎに、科学捜査の有効性のみならず、限界についても配慮されたバランス。これは科学の知見や科学捜査の技術の問題というより、それを扱う「人」の問題が大きそうです。イケメン病理学者に対しての疑惑、指紋鑑定が生み出しうる冤罪、DNA鑑定における汚染の問題、プロファイリングでのおとり捜査の失敗などの例をあげるまでもなく、手法が信頼のおけるものであっても、適切に扱われなければその効果を最大限発揮できません。今野敏氏の推薦文から引かせていただきますが「日進月歩の科学捜査も万能ではない」のです。
 そして最初から最後まで一貫している、科学に対する信頼と科学者へのリスペクト。それは「科学捜査というのはそれ自体が心の踊る仕事であり、それを職にしている人々は、率直に言って、とびきり素晴らしい人たちなのだ」という一文からも感じ取れるかと思います。

 ほかにも、あの作品に出てきたあの科学者はこの人がモデルかも、という元ネタ探しもできそうです。実際、出世作『殺しの儀式』で初登場した心理分析官トニー・ヒルのモデルとなった心理学者が登場します。マクダーミドの作品を読まれたことのある読者のみなさんには、そんな楽しみ方もできると思います。
 もちろん、マクダーミドの作品を読んでいなくても、誰でも楽しんでいただけるのは間違いありません。ぜひお手に取っていただければ幸いです。

(化学同人編集部・T) 

※本書で紹介されている科学捜査のうち、プロファイリングとDNA鑑定をテーマにした書籍を、小社から刊行しています。『犯罪捜査の心理学』『DNA鑑定は万能か』がそれです。それぞれの手法を掘り下げた内容なので、本書を読まれてもう少しくわしく知りたいと思われたら、読みたい本のリストに加えていただけると嬉しいです。








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