香港の本格ミステリ小説です。ウォン・カーウァイが映画化権を持っています。タイトルの『13・67』(いちさんろくなな)は1967年と2013年を指した数字。六篇の連作中編小説で六つのストーリーと時間をつなぎ、ある警察官の人生と香港という都市のおよそ半世紀の変化を描ききった傑作です。
主人公は香港警察の「名探偵」クワン。イギリス植民地時代も祖国復帰後も、卓越した推理力と常識に囚われないロジックで難事件を解決し、組織に縛られない超法規的な人脈と行動力で凶悪犯を次々逮捕していきます。そのくせ「ドケチ」とあだ名され、どこか飄々したキャラクター造形が緊迫する捜査シーンでも笑いを誘います。いっぽうで彼の捜査行動の根っこには、「市民を守るため」という信念があります。そんな「警察の正義」が作中いくども語られ、その信念を貫くときに生じる組織との軋轢、社会環境や歴史条件との矛盾が重要なテーマにもなっています。
第一話(2013年)は安楽椅子探偵もの。主人公クワン元警視が病床において、巨大企業グループの経営者が自宅書斎で殺された事件を、「YES」「NO」の答えだけで解決します。
第二話(2003年)は一転、いかにも香港らしいマフィアもの。クワンの弟子、ロー警部が尖沙咀エリアの麻薬摘発作戦に失敗したあと、麻薬密売を牛耳るマフィアの息がかかったアイドル歌手が路上で襲撃され、行方不明になった。その一部始終を記録した動画を受け取ったローは、雪辱を遂げるため果敢な作戦を進める。その裏で動くクワンの本当の狙いとは?
第三話(1997年)は脱獄もの。祖国返還が間近に迫る香港島西地区で、凶悪犯罪者の脱走事件が発生した。ところがクワンはローを連れ出し、同じ日に発生した硫酸投下事件の捜査に向かう。昔ながらの露天マーケットと救急病院で聞き込みを終えたあと、クワンがとった意外な行動とは?
--と、ここまで三話は、いかにも本格ミステリらしい大胆なトリックと犯人との知恵比べがたっぷり楽しめます。
第四話(1989年)は香港警察内部の対立を描いた、内幕もの。旺角の雑居ビルで発生したド派手な銃撃戦の裏に隠された、二重の犯罪をクワンが暴きます。新人刑事のローが銃撃戦の最前線で見たものは? 香港映画を小説化したようなアクション描写がキラリ輝き、小説として白眉です。
第五話(1977年)は誘拐もの。香港警察に汚職が蔓延った時代、その摘発を担う廉政公署のイギリス人調査官の家で起こった誘拐事件をクワンが追います。巧妙な身代金受け取りの真の目的とは?
第六話(1967年)は香港戦後史の重大事件「六七反英暴動」--イギリスの植民地支配の転覆を狙った左派勢力によるストライキ、デモ、テロがおびただしく発生するさなか、ヴィクトリア湾を航行するフェリーを使ったテロ計画が発覚します。そして驚愕のエンディング……。
五、六話の二つのストーリーでは、犯人を追うクワンたちといっしょに香港じゅうを駆けずり回るうちに、経済成長とともに消えてしまったかつての街の風景や人びとの生活感がじんわりと見えてきます。行ったことも場所なのに、まるで風の匂いまで感じ取ってしまう。これは海外文学を読む醍醐味のひとつではないでしょうか。
著者は香港人ミステリ作家で、第二回島田荘司推理小説賞受賞者、陳浩基(ちんこうき、サイモン・チェン)です(邦訳に『世界を売った男』)。彼はあとがきで、「本格ミステリ」と「社会派ミステリ」の融合を目論んだと書いていますが、たしかに本作は「周到かつ大胆にトリックを構築し」ながら「香港戦後史に隠された社会問題を指し示す」ことに成功しています。彼が六つのストーリーを重ねて浮かび上がらせようとしたのは、常に外的要因によって揺れる香港人のアイデンティティであり、「正義」という権力を行使することへの惑いです。それを2014年の「
堅苦しいテーマはともかく、まずは本格ミステリをたっぷり堪能したあと、香港(人)のなにかを感じていただければ幸甚です。これまで中国語の翻訳小説が読みつけなかった人でも、六つのトリックと香港の多彩な風景が楽しめるお得な一冊です。本格ミステリ(あるいは海外ミステリ)ファンのかたはもちろん、香港に興味がある(あるいは香港映画が好きな)かたにも広く、読んでいただけたら。
天野健太郎(あまの けんたろう) |
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台湾専門翻訳・通訳。訳書に龍應台『台湾海峡一九四九』『父を見送る』(白水社)、呉明益『歩道橋の魔術師』(白水社)、猫夫人『店主は、猫』(WAVE出版)、鄭鴻生『台湾少女、洋裁に出会う』(紀伊國屋書店)、ジミー・リャオ『星空』(トゥー・ヴァージンズ)ほか。 Twitterアカウントは taiwan_about もっと台湾(@taiwan_about)。 |
陳浩基さんの前作、『世界を売った男』を編集した時と今回とでは、作品の手触りに大きな違いを感じました。『世界を売った男』は、記憶を失った刑事が捜査していた事件の真相と自分の記憶とをふたつながらに追いかける、サスペンス味にあふれた快作です。著者の筆致はテンポがよくてリーダヴィリティが高く、謎解きもお見事でしたが、作品世界のスケール感にはやや欠けるきらいがありました。
一方、『13・67』に収められた6つの中篇はどれも稠密な描写に満ちた重厚な仕上がりで、しかも全体で香港の現代史そのものを読み解こうという構えの大きな小説です。作品の細部に宿る繊細さ以上に、豪腕でねじ伏せてやろうという迫力に圧倒させられました。
日本でも、大きな文学賞に輝いた作家がどっしりと腰を落ち着けて傑作をものするのはままあること。陳さんが島田荘司推理小説賞を受賞したことで、作家としての自信を深めたことは間違いなさそうです。「男子三日会わざれば刮目して見よ」という慣用句の出典は「三国志演義」だそうですが、陳浩基という作家が「化けた」瞬間を目撃したと感じました。
私事ですが、編集子の生年は1966年。『13・67』の中で描かれた半世紀を私自身も生きてきましたが、香港と東京とで同じ時間が流れたわけではないことを、この作品は改めて教えてくれます。このところの北朝鮮問題もあり、日本人も東アジアの複雑な政治的状況に無関心ではいられなくなっています。一方、香港は長くイギリスの植民地として支配され、1997年の中国への返還後は一国家二制度の建前のなかで中国政府からの圧力が徐々に強まり、市民の自由が制限されています。かつてのような「警察官=正義のヒーロー」というイメージが市民の間で共有できなくなっている現状を敏感に察知し、やがて「市民と権力の間で揺らぐ香港警察のアイデンティティー」という大きなテーマが著者の中に浮かび上がってきました。
今年の7月に刊行された第3回島田賞受賞作『逆向誘拐』(胡傑著『ぼくは漫画大王』と同時受賞)の著者・文善さんも、陳さんと同じく香港出身。陳さんより5つ年下の1980年生まれですが、文さんは香港返還を前に15歳でカナダに移住しました。そして2013年に自らのホームタウン・トロントと思しき都市の巨大投資銀行を舞台にした誘拐ミステリーで、陳さんに続いて島田賞を受けたのです。このふたつの作品を併せて読むことで、東アジアの現代史をより立体的に感じ取れるでしょう。
近年、香港や台湾、中国で(そして北米やヨーロッパなどの華人社会でも)ミステリー作家を目指す書き手が続々と登場しています。そのほとんどが日本のミステリーを愛読し、それをお手本にして自作を書き始めています。『13・67』は、著者が日本のミステリーのテクニックを自家薬籠中のものとし、執筆活動の中で計らずも大きなテーマに出会ったことで生まれた、本格ミステリーと社会派ミステリーが真に融合した傑作なのです。
(文藝春秋・荒俣勝利)