エルモア・レナードという作家、みなさん知ってました? お若い中にはご存じない方もおられるかもしれません。あちらでもこちらでもほぼ同時期の80年代に大ブレークしたアメリカのミステリー作家です。
 小説を読んで衝撃を受けるということ、ありますよね。私にも何度かありますが、このレナードの『グリッツ』という作品はまさにそれでした。
 高見浩さんの流麗な翻訳で読んだのですが、ページをめくるのがもどかしく、それでいて読みおえてしまうのがもったいないような、おまけに心がざわついて、いても立ってもいられなくなったあの感覚、今でもよく覚えています。
 『グリッツ』はまた“宣伝文句は書きません。批評家の賛辞も省略します。ただ〈レナード・タッチ〉を味わってください”という帯に書かれた“宣伝文句”も話題になった作品でした。今回、久しぶりにレナードを読んで訳して改めて思いました、そう、やはりこのレナード・タッチこそレナードの一番の魅力だと。
 では、それはどんなタッチなのか。
 『グリッツ』を読んだときにはまず不思議な感覚を覚えました。80年代という“今”が実にスタイリッシュに描かれているのにどこか懐かしい。これってなんなんだろうと思いましたね。その感覚と、それ以降に読んだり訳したりした何冊かの感想をまとめて言うと、グリッツ・タッチとは、口語表現を大胆に取り入れ、自在に操り、とぼけたユーモアと生々しさときわどさと懐かしさが絶妙に配合された味わいということになるでしょうか。
 あとはなんといっても文体ですね。英語の話になっちゃいますが、直接話法でも間接話法でもないその中間の話法――描出話法――がレナードは実に上手い。これを多くは悪玉の台詞とその前後の地の文でやってみせるんですね。悪玉の台詞と地の文の境界を意図的にあいまいにして、要は地の文における悪玉の独白なんだけれど、そこに悪玉の声だけでなく、作者の声、あるいは悪玉とはかぎらないわれわれ一般人の声も含ませるんです。
 一般読者はレナード作品に登場する悪玉のようには普通考えません。また、いくらかでも教養と良識を備えていれば、彼らのようなことばづかいも人前ではしません。それでも、ときには教養も良識もかなぐり捨てて、誰しも思いきり卑語を吐いたり、わざと意地悪く差別的なことを考えたりしたくなることも、ま、ないではない。で、そういうことを誰かが代わりにやってくれると、うしろめたさを覚えながらも、ひそかに溜飲を下げることもこれまたないではない。
 『グリッツ』や本書が書かれた八〇年代、当時の新人類“ヤッピー”が真っ先にレナード作品に飛びついたそうですが、その理由はおそらくそのあたりにあったんでしょう。悪人の台詞の中だけでなく、“誰か”が地の文でそうした“本音”を語ってくれるところが、朝から晩まで働いてあくまで“実力”で大金を稼いでいるのに、リベラル派からは自己中心的だのスノッブだのと揶揄、批判されたヤッピーにはきっと痛快だったんでしょう。
 
 さて、そんなレナードの本作『ラブラバ』ですが、彼の出世作であり、アメリカ探偵作家クラブ賞M W A最優秀長篇賞を受賞しただけのことはある、レナードの“四〇年代フィルム・ノワールへのオマージュ”のような作品です。
 物語は――囮捜査やシークレット・サーヴィスで要人の警護を経験したこともあるフリーカメラマンの主人公、ラブラバが十二歳のときに憧れた往年の映画女優、ジーン・ショーと思いがけず出会うところから動きだします。その出会いはただの出会いに終わりません。なんとなんと、発展しちゃうんです。
 いいですか、子供の頃の憧れの銀幕のスターと……ですよ。この野郎っすよね、まったく。私としちゃあ、この野郎としかほかにことばが見つからない。ま、私情はさておき、そんなところへジーン・ショーを脅迫するいささか奇妙な手紙が届けられ――“おまえの命は六十万ドルだ……おまえを見張ってるからよ”――こうした善玉側のシチュエーションと並行して、悪玉凸凹コンビ、ノーブルズとクンドー・レイの一見不可解な所業が描かれ、物語は善玉側と悪玉側のふたつの視点で語られます。
 そして、このふたつの視点が物語の最後ではなく、途中でドッキングする。ここのところがいかにもレナードですね。ミステリーとしての“謎”をとりあえず提示しながらも、その“謎”をいつまでも引っぱらない。物語半ばであっさり明かしてしまう。にもかかわらず、話はそこからギアアップされ、一段と面白くなります。いったいこの話はどこに落ち着くのか。謎は明かされてもなかなかさきが読めない。話の続きが知りたくてページを繰る手がもどかしくなること請け合いです。と同時に、善玉悪玉双方の登場人物のどこかとぼけたやりとりを聞いているだけでも飽きません。まさに至芸の名品。
 
 あくまで一翻訳者の個人的な感想にすぎないけれど、アメリカのミステリー・シーンはレナード以前レナード以降で大きく区切ることができるのではないか。そんなことさえ思わせる大作家レナードの一番脂の乗った時期の本作『ラブラバ』。お手に取っていただければ幸いです。
 

田口俊樹(たぐち としき)
 日々衰えを感じつつもごまかしごまかし、しぶとく仕事を続けている調布在住の老翻訳者。私の世代の銀幕の女優と言えば、やっぱりダントツで吉永小百合でしょうか。私自身はそれほどファンでもないんだけど、二年ほどまえ吉永さんがある文学賞を受賞なさって、その授賞式で初めてナマ吉永を見ましてね。いや、正直、見ただけで圧倒されました。大女優のオーラに。まわりの空気がなんかちがうんですよ、いや、ほんとに。着ているものなんか黒いスーツで、すごく地味なのに。賞の贈呈者がたまたま高校の同級生だったんですけど、授賞式のまえには、そいつ、賞の贈呈をするときには絶対握手しちゃうもんね、ぼく、なんて嬉しそうに言ってたんだけれど、見てたら、かしこまっちゃってかしこまっちゃって。あとで、どうしたんだって訊いたら、出そうと思っても手が出なかったんだって。畏れ多くて。これ、嘘じゃないと思いましたね。あの日の吉永小百合にはそれほどのものがありました。汚い爺なんか寄せつけない『スター・ウォーズ』のフォースみたいなやつですね。いいですか、紳士諸君、ラブラバはそんな女優と……。
(Photo © 永友ヒロミ)
■担当編集者よりひとこと■

 田口俊樹さんに『ラブラバ』の新訳を電話でお願いした際、小躍りするような調子で「やるやる」と快諾していただいたのをよく覚えています。電話を持たない方の手はおそらくガッツポーズしていたのではないでしょうか。上のエッセイからも田口さんのレナード愛がひしひしと伝わってきますが、飲み会でもしばしば80年代におけるレナードの斬新さとその後への影響を語ってらっしゃいました。
 
 というわけで、今回の読みどころはその田口さんがどのようにレナードを訳されたのかの一点に尽きます。編集者としては詳細を書き込みたくもあるのですが、興を削ぐのもあれなので、相性バッチリだったと申し上げるに留めます。訳文というよりかは、訳者自身がこの小説を書いたのではないか、と思わせるほどの滑らかさ。僕は読んでいて、たしかにマイアミのサウスビーチに立っているかのような錯覚を覚えました。
 
 最後に豆知識をひとつ。ハヤカワ・ミステリ(通称ポケミス)は、海外の最先端ミステリをいち早くお届けするという使命もあり、新訳版を刊行することはほぼありませんでした。1954年に刊行したレイモンド・ポストゲート/黒沼健訳『十二人の評決』(ハヤカワ・ミステリ179)が、1999年に宇野輝雄訳の「改訳版」(ハヤカワ・ミステリ1684)と謳われて出された以外、弊社の記録には新訳の形跡はありません。今回の田口さんによる『ラブラバ』はポケミス史上二例目の新訳版となります。
 だから何だと言われてしまうかもしれませんが、今後はポケミスにも世界の名作を新訳で「格納」していければと思っております。

(早川書房 A・Y) 

 







 

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