いきなりですが、「高校生のゴンクール賞」をご存知でしょうか。フランスの権威ある文学賞「ゴンクール賞」の一次候補作リストから、フランスの高校生およそ2000人の議論・討論を経て決定する本賞は、ゴンクール賞の高校生部門といった位置付けでありながら、いまや本家に並ぶほどの注目を浴びています。その受賞作一覧は、https://academie-goncourt.fr/?article=1258401160 で確認いただけます。2012年にはジョエル・ディケール『ハリー・クバート事件』(橘明美訳 東京創元社)が受賞していますね。日本でも2014年から、この「高校生のゴンクール賞」に倣って「高校生直木賞」が始まっています。選考の仕方も「高校生のゴンクール賞」を踏襲しているようで、毎年瑞々しい議論の末に受賞作が決まっているようです。この5月に第5回の受賞作が発表されたのは、みなさんの記憶にも新しいところかと思います。受賞作への注目はもちろんのこと、高校生がどのような議論の末に受賞作を決定するのか、その様子を一から見てみたいと思うのは私だけではないでしょう。

 さて、今回ご紹介するのは、高校生のゴンクール賞2015年の受賞作、デルフィーヌ・ド・ヴィガン『デルフィーヌの友情』(湯原かの子 訳 水声社)です。第6回読者賞では得票数「1」でしたが、もっと多くの方に、ぜひ一度手に取っていただきたい作品です。

 デルフィーヌの友情 (フィクションの楽しみ)
 出版社:水声社
 作者:デルフィーヌ・ド・ヴィガン
 訳者:湯原 かの子
 発売日:2017/12/15
  価格:2,484円(税込)

 本作の語り手であるデルフィーヌは、母の自殺を題材にした自伝的小説が大ベストセラーとなったけれども、その作品が与えた影響の大きさと次作へのプレッシャーからスランプに陥っている作家です。ある時彼女は、同業者に誘われてとあるパーティーに行くことになり、そこでLという女性と出会います。デルフィーヌの著作はもとより、雑誌に載ったインタビューに至るまで、彼女に関することならなんでも目を通したというLは、次第にデルフィーヌの生活に入り込んでゆき、やがて、スランプに陥っている彼女の創作姿勢に口を出すまでになります。Lに振り回され、蹂躙され、とうとうパソコンに向かうこともペンを持つこともできなくなってしまったデルフィーヌ。どんどん彼女の内面に入り込んでくるLと、その言動に反発を覚えながらも受け入れていくデルフィーヌの間に醸成されていく密やかで危険な関係性とその破綻の顛末を、デルフィーヌの回想という形で描いた作品となっています。

 作家とファンとの異常な関係を描いた作品といえば、スティーヴン・キング『ミザリー』(矢野浩三郎訳 文春文庫)を思い起こしますが、著者もそれは意識していたらしく、3章仕立ての本作では、第1章と第3章のエピグラフに『ミザリー』からの引用が置かれています(ちなみに第2章は『ダーク・ハーフ』から)。このエピグラフが、デルフィーヌの精神が次第に侵食されていくという心理サスペンス的な側面を印象づける効果を生んでいます。Lの言動の端々に違和感や矛盾を見出しながらもそれを受け入れていくデルフィーヌの心理状態と、Lがどうやってデルフィーヌを懐柔していくのか、その目的はなんなのかに注目しながら読んでいくと、背筋の寒い思いをすることは間違いないでしょう。

 また本作では、二人の間で交わされる文学論も読みどころのひとつです。自伝的小説が話題となった結果、脅迫状が届くなど精神的なダメージを負っていくに至り、次作では純粋なフィクションを書きたいと考えるデルフィーヌと、読者は真実を欲しており、フィクションを書くことに意味などなく、デルフィーヌには書かなければならない真実の物語があるのだと主張するLとの間で繰り広げられるやり取りは、自ずと小説における「真実」とは何か、あるいは「虚構」とは何か、という問いを読者に投げかけてきます。また作中、その家族構成から現在の生活環境、恋人とのやり取りに至るまで明らかにされているデルフィーヌがフィクションの重要性を語り、ゴーストライターとして生計を立てている以外のなにも明らかにされない(読者はおろかデルフィーヌ自身も知らない)、いわば謎に包まれたままのLが、小説における真実の重要性を語るという対称性もおもしろいところです。

 後半、足に怪我を負ってしまい、生活のすべてをLに頼らざるを得なくなったデルフィーヌは、Lがぽつぽつと語り始めた身の上話に衝撃を受け、これを小説にしようと考えます。物語はここから大きくうねりはじめ、一気に結末へと向かいます。著者と同じ「デルフィーヌ」という名前を主人公に与えたこと。著者自身「母の自殺を題材にした自伝的小説」を書いていること(『リュシル ―闇のかなたに』山口羊子訳 エンジンルーム)。Lとデルフィーヌが“よく似ている”こと(デルフィーヌの代わりにLが講演会でしゃべるというエピソードまである)。そして原題『D’après une histoire vraie』が、直訳だと“本当の話によると”となること。これらを合わせ考えていくと、本作における真実と虚構の境界、あるいはデルフィーヌとLの境界がどうなっているのすらよくわからなくなってくるのです(第2章のエピグラフ、『ダーク・ハーフ』からの引用は実に象徴的です)。Lに翻弄されるデルフィーヌと同様に、私たち読者も著者に翻弄される、そんな読書が楽しめるのではないかと思います。

 最後の“一文字”まで、じっくり読んでいただきたい作品です。

 ところで本作は、ポランスキー監督『告白小説、その結末』の原作でもあります。この結末をポランスキーがどう撮っているのかとても気になります。公開は6月23日からです。本作を読み始めるに今以上のタイミングはないかも!

 ゴンクール賞つながりで、今回はもう1作品紹介したいと思います。3月に集英社文庫で刊行された、レイラ・スリマニ『ヌヌ 完璧なベビーシッター』(松本百合子訳)、2016年のゴンクール賞受賞作です。

 “赤ん坊は死んだ。ほんの数秒で事足りた。”という一文が目を引く冒頭。物語は、ベビーシッターが子ども二人を殺害した現場から始まります。しかしたった3ページほどの現場描写のあと物語は時間を遡り、ある夫婦がベビーシッターを雇う相談をする場面へと移ります。

 「ヌヌ」とは、フランス語で乳母を意味する「ヌーリス」の子ども言葉。「おばあちゃん」を「ばあば」と呼ぶようなものでしょうか。ベビーシッターとはいうものの、フランスでは子どもの面倒だけではなく、家事全般を請け負うケースもかなりあるようです。本作の主人公ルイーズは、子どもの心を掴むことに長けているのを見込まれて、パリに住む若い夫婦に「ヌヌ」として雇われるのですが、ルイーズは子どもの世話に長けているだけでなく家事全般に万能で、正に「完璧なベビーシッター」だったのです。ルイーズに家事をすべて委ね、やがて夫婦はそれぞれの仕事で結果を残し、ヌヌと子どもたちの関係も良好で、順風満帆な生活を送り始めます。一見なんの問題もなさそうなこの家庭で、なぜ冒頭のような事件が起こってしまったのか。著者は、ルイーズと夫婦、つまり被雇用者と雇用者、貧する者と富める者、それぞれの立場から、がっちり噛み合っていたはずの歯車が狂っていく様を描いていきます。ルイーズはなぜこうも完璧に家事をこなすのか。子どもたちに示された愛情はなんだったのか。お金でやり取りされる愛とはいったいなんなのか。そしてなぜ殺さなければならなかったのか。

 私たち読者は、細かく描かれるヌヌや子どもたち、若夫婦の日常から手がかりを得て、「なぜ」を解き明かしていかなければならないのです。

 ということで、今回ご紹介した2作品、どちらもかなりオススメです。読書会の課題にすればいろんな意見が聞けそうな作品だと思います。ぜひ読み逃しのないよう!

大木雄一郎(おおき ゆういちろう)
福岡市在住。福岡読書会の世話人と読者賞運営を兼任する医療従事者。読者賞のサイトもぼちぼち更新していくのでよろしくお願いします。