「翻訳ミステリー大賞シンジケート」開設から3年半にわたって連載した《アガサ・クリスティー攻略作戦》が『アガサ・クリスティー完全攻略』として本にまとまって4年。このたび、ハヤカワ文庫のクリスティー文庫の一冊として文庫化されました。
 
 なんと恐ろし……いや光栄なことでしょうか。思えば本書の単行本版が日本推理作家協会賞と本格ミステリ大賞(ともに評論などの部門)をいただいたときにも、
 
「遊ぶカネほしさではじめたものが大それたことに……」
 
 と震え上がったものでした。それがとうとうクリスティーの本丸の本丸、早川書房のクリスティー文庫に入ってしまうというのですから、なんというか、いろいろなところに足を向けて寝られない気がします。
 
 最初に書誌的なことを記しておきます。今回の文庫版は、〔決定版〕と銘打たれていますが、これは講談社版の『アガサ・クリスティー完全攻略』に、同書刊行後にクリスティー文庫から刊行された『ポアロとグリーンショアの阿房宮』のレビュー(初出は本サイト)が追加されているためです。ほか、「文庫版あとがき」と、杉江松恋氏による解説が巻末に収録されています。
 
 本文にも若干の手が入っています。もっと手を加えたかったというのが正直なところなんですが、上で触れたように、『アガサ・クリスティー完全攻略』は賞をいただくという栄誉に浴してしまいました。となると本の中身に手をつけるのはアンフェアなんではないか。などと思ってしまったせいで、文庫化にあたっての修正は、単に文章の不備や事実関係のまちがいの訂正にとどめ、クリスティー作品にまつわる評価や論については単行本時のママとなっています。
 
 さて「文庫版あとがき」で、私は本書を書く際に『別冊宝島 刑事コロンボ完全捜査記録』(現在は「増補改訂版」)と、『別冊宝島JAZZ“名盤”入門!』(現在は宝島社新書)を大いに参考にした、と書きました。その詳細は現物をご覧いただければと思いますが、もうひとつ念頭にあったのは、音楽雑誌のディスクレビューでした。具体的にいえば、各作品に星で評価を打ったのは、そこからの影響です。100冊もある本の山を前にして、丸腰で「よしこれを読もう」と決めるのは難しい。「めんどくさいからいいや」となるのが人情でしょう。明快なかたちで、「どれから読むか」を示すにはどうしたらいいのか。それが大きな問題で、その指針として、〈みずてん〉で買うしかないモノの筆頭である「音楽のパッケージ」のそれに倣ったことになります。
 
 だから星の数の基準がブレてしまっては元も子もない。たぶん本書全体について私がいちばん意を払ったのはそこかもしれません。物差しが伸び縮みしてしまったら何の役にも立たない。本書の性格上、物差しの精度は話が進むごとに上がっていくとしても、物差し自体のかたちが変わったりしてはならない。杉江松恋氏は解説でくりかえし、本書において批評の基準となるものは「霜月蒼」という個人の読書体験以外に存在しない、と指摘しています。これは慧眼というべきで、自分=物差しとすることで、評価基準のブレを抑えようとしていたのでした。
 
 だから本書を読んでクリスティーを買ってしまった、読んでしまった、という声が一番うれしい、と思うのと同時に、本書における星の数であるとか、各作品への評価というものが絶対視されてしまっては嫌だなと思っています。「霜月くんはなかなかのものである」と思う方は星の多い順からお読みいただければいいですし、「こいつ何もわかっちゃいねえな」と思う方は星の少ないものからお読みになればいい――物差しがブレてしまうと、そういう使い方ができなくなってしまうのです。
 
 かつて私の知人がこんなことを言っていました。

「誰かに本をすすめて、『面白かった』と言われたら喜ぶべきだが、『つまらなかった』と言われたら『そうなんだ、でもおれは好きなんだよね』とスルーすればいい」

 小説の評価なんて主観的でしかありえません。そもそも私とクリスティーにしたところで、ミステリを読みなれていない頃に『三幕の殺人』を読んでいたら、あるいは独身時代に『娘は娘』を読んでいたら、冒険小説やスパイ・スリラーを体験する前に『死への旅』を読んでいたら、評価が変わっていた可能性はじゅうぶんにあります。
 

 クリスティーはこれこれこれが超面白い。
              ――個人の感想です。

 
 というのが『アガサ・クリスティー完全攻略』という本です。ひとつ断言できるのは――ジム・トンプスンが好きなひとにも、ドナルド・E・ウェストレイクが好きなひとにも、マイクル・コナリーやジャック・カーリイが好きなひとにも、暗い話が好きなひとにも天真爛漫な話が好きなひとにも、どろどろした恋愛沙汰が読みたいひとにも、カッコいいヒーロー物語が好きなひとにも、「これ超面白いよ!」と思えるクリスティー作品が必ずある。

 その発見の手助けになれば、と願っています。
 

霜月蒼(しもつき あおい)
 1971年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。大学在学中は慶應義塾大学推理小説同好会に在籍。現在はミステリ評論家として活動している。共著に『バカミスの世界 史上空前のミステリガイド』(小山正編)、『名探偵ベスト101』(村上貴史編)、『ジム・トンプスン最強読本』(小鷹信光ほか著)がある。「翻訳ミステリー大賞シンジケート」にウェブ連載された「アガサ・クリスティー攻略作戦」を書籍化した『アガサ・クリスティー完全攻略』で、第68回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、第15回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)を受賞。

 


 

 

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