■戦時ミステリから戦後混乱期ミステリへ~
        『終焉』を迎えてもまだ終わらない■


 みなさん、こんにちは。こちらのサイトではしばらくぶりの登場となります。ドイツミステリのプレゼンスを高めたいといろいろ翻訳を手がけていますが、楽しんでいただけているでしょうか。今月は今年3本目のドイツミステリーを翻訳出版します。タイトルは『終焉』。といってもドイツミステリー翻訳の終焉ではないのでご安心を。2015年6月に出た第1作『ゲルマニア』(集英社文庫)にはじまる戦時ミステリーシリーズの第3作です。
 

『ゲルマニア』を翻訳したときは、まさかシリーズになるとは思ってもいませんでした。というか、今年9月には第4作 Totenliste(死亡者リスト)がドイツで出版される予定です。しかも作者ハラルト・ギルバースから届いたメールによると、すでにその次も構想中とのこと。
 
 そもそも『ゲルマニア』を翻訳することになったいきさつからふるっています。原作が出版されたのは2013年11月で、ぼくはドイツのAmazonで10月には本書の予告を見つけ、あらすじを読んで興味を覚えました。ふだんから出版エージェントを通して出版前の作品をPDFで入手しているので、さっそく問い合わせをしました。しかしそのときの回答は、すでに版権が売れている、という残念なものでした。ドイツ文学で出版前から版権が売れるということはめったにないことです。ドイツでは10月にフランクフルトブックフェアがあるので、たぶんそこで出版前に売れたのだろう、この本とは縁がなかったと思いました。ところが、年が明けた2月。そのエージェントからメールが来ました。集英社の編集者が連絡を取りたいというので、連絡先を教えていいか、という内容でした。もちろんいいですと返事をしたところ、編集者Sさんからこんな文面のメールをもらいました。

 さて、このたびご連絡させていただきましたのは、 弊社でドイツ語のミステリを出版することになりまして、 ぜひとも酒寄さまに翻訳を賜ることができれば、と考えた次第です。 作品のタイトルは GERMANIA 、著者はHarald Gilbers。第一作です。 第二次世界大戦、ベルリン。主人公はユダヤ人の元刑事ですが ナチス関係者の連続殺人事件が起こり、警察に強制的に連れもどされ、捜査を命じられます。 戦時中の混乱の中、主人公は犯人と自らの生きる道をも探す……というストーリーです。 原書は544ページですが、文庫本1冊で出す予定です。 多忙中のところ大変恐縮ですが、何卒ご検討いただけないでしょうか。

 読むなり、びっくり。縁がなかったと思いこんで、いずれ時間ができたら読んでみようと思っていた『ゲルマニア』の翻訳依頼だったのです。未読だったので、少し時間をもらって作品の検討をしました。ちょうどナチ時代を舞台にしたフォルカー・クッチャーの刑事ゲレオン・ラート・シリーズの第3作『ゴールドスティン』(創元推理文庫)を脱稿した頃でした。やさぐれた刑事の視点で1929年から1936年までのベルリンを描くことになっているこちらのシリーズと、シームレスとはいえないまでも、おもしろいつながりのあるシリーズだと魅力を感じました。
 
 ギルバースの戦時ミステリーシリーズも舞台はベルリンです。ただしこちらは戦時下の1944年からはじまります。第1作『ゲルマニア』はヒトラーによるベルリン大改造計画「世界首都ゲルマニア」の誇大妄想が犯人の妄想と重なりながら展開します。ベルリンはすでに連合軍の空襲を受けていて、廃墟が目立ちはじめ、大量の死者が出ているなか、連続殺人を追うという、いったいどちらがより重い罪なのかという矛盾に満ちた事態となります。しかも主人公となるオッペンハイマーは、ユダヤ人の元刑事。依頼人は捜査に行きづまった親衛隊将校。断ればもちろん死、捜査に協力しても、犯人がナチの有力者であれば、これまた口封じで死をまぬがれない。そんなにっちもさっちもいかない状況で捜査はつづき、彼の目を通して廃墟となりつつあるベルリンが描かれていきます。
 


 第2作『オーディンの末裔』は1945年1月のアウシュビッツからはじまります。すでにソ連軍の砲声が聞こえています。視点人物は囚人で人体実験をしていた親衛隊の医師。戦後南米に逃げ、隠れひそんでいたことで知られる医師ヨーゼフ・メンゲレを彷彿とする人物です。名前はハウザー。彼はナチに見切りをつけ、逃亡を計画してベルリンへ脱走します。向かう先は反ナチ活動をし、オッペンハイマーの逃亡を手助けした別居中の妻ヒルデ。物語はこのハウザーがかかわっている妄想の塊ともいえる秘密結社の話と、別居中の夫ハウザーを殺害したとして逮捕されたヒルデを弁護する話が並行して進みます。イエス・キリストとオーディンを同一視する秘密結社はもちろん架空ですが、そうしたアーリア人至上主義から生まれた神秘思想アリオゾフィは本当に存在しました。一方、ヒルデの弁護は至難の業となります。ヒルデが反ナチだったことから、ミュンヘンの学生グループ「白バラ」の裁判をおこなったことで知られる人民法廷の扱いになります。法廷に立たされれば、ほとんど死刑確定。
 

 第3作は廃業したビール工場の地下からはじまります。冒頭はこんな感じ。

 オッペンハイマーの世界はわずか数百平米の空間に縮んでしまった。だがこの六週間で、その狭さにも慣れた。地平線は粗末な漆喰壁。赤レンガの空は鉄柱に支えられている。

 物語がはじまるのは、1945年4月20日。ヒトラーが自殺するのは10日後。ドイツの無条件降伏は17日後。オッペンハイマーにとってナチは敵ですが、敵の敵は味方という言葉がはたしてあてはまるのか。そこがひとつ読みどころになるだろうと思います。
 今回、オッペンハイマーが巻き込まれるのは、ソ連とアメリカが戦後の冷戦をにらんで繰り広げるナチの原爆開発技術の争奪戦です。争奪戦自体はもちろんフィクションですが、原爆開発の経過については史実に基づいて詳述されています。
 また第1作から登場している脇役もそれぞれ活躍します。収監中のヒルデが再登場して、また毒舌を振りまきます。ごろつきエデも瓦礫の中で商魂たくましく新たな事業に乗りだしソ連兵崩れのギャングたちといざこざを起こします。ベルリン市街戦の惨状や略奪暴行からベルリン陥落後の窮乏した市民生活や闇市、占領したソ連軍の動向などが活写され、戦後の混乱期のベルリンを描いた珍しいミステリになっています。
 ところで、コックの目線で戦場の日常を描いた『戦場のコックたち』で知られる深緑野分さんも、敗戦直後のベルリンを舞台にした作品『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)を執筆中です。近々出版されるらしいので、『終焉』と読み比べるのも一興かもしれません。

酒寄進一(さかより しんいち)
 1958年茨城県生まれ。ドイツ文学翻訳家。和光大学教授。主な訳書にシーラッハ『犯罪』『罪悪』『コリーニ事件』『禁忌』『カールの降誕祭』、ノイハウス『深い疵』、フェーア『弁護士アイゼンベルク』、フィツェック『乗客ナンバー23の消失』。セシェ『蝉の交響詩』が第51回「夏休みの本」(緑陰図書)に選ばれました。

 

■担当編集者よりひとこと■


 もはや、言い飽きたし、聞き飽きたし、なのですが……暑いですね。尋常じゃない暑さ。出口のない暑さ。暑い。
 
 この酷暑だからこそオススメしたいのが、『終焉』。体感温度−5℃をお約束する、〈ユダヤ人元刑事オッペンハイマー〉シリーズ第3弾です。
決して“背筋が凍る”ような猟奇殺人事件が起こるわけではありません。氷点下30℃を“暖かくなってきた”と感じるような極北の地が舞台なわけでもありません(ベルリンです、舞台は)。それでも体験温度を下げてくれるのは、この物語全体を包む、喪失感や虚無感、絶望感といった、やり場のない気持ちの塊が、ブラックホールのように周囲のものを――熱さえもー――引き込んでしまうからなのです。で、読んでいるうちにスーッと涼しくなっていく。
 それは、とにかく著者ギルバースの圧倒的な描写力のせい。これでもか、これでもかと、壊れ切った街ベルリンを読者に見せつけます(それを、これでもか、これでもかと、完璧に訳される酒寄さんには、Mの気を感じさえします)。ベルリンが陥落し、ドイツが敗北。これでやっとナチスに怯えずにすむのか、と思ったら、今度はソ連軍が占拠してやりたい放題。泣きっ面にハチ、傷口に塩、弱り目に祟り目……なのですよ。
 
 そんな踏んだり蹴ったりの『終焉』の世界ですが、個人的にとても気に入っていることがあります。
 どんな極限状況でも、女は強い、ということ。
 例えばオッペンハイマーの妻、リザ。この作品の中で彼女は、横行闊歩のソ連兵にレイプされてしまいます。それを知ったオッペンハイマーは、ソ連兵への復讐の念を燃え上がらせる一方で、リザとどう接していいか分からず、おろおろ。やってはいけない「傷物に触れる」状態になってしまいます。片やリザは、泣きわめくわけでもなく、だれを責めるわけでもなく、静かに事態を受け入れる。香水を浸した布で、そっと自分の内腿を拭いているシーンなど、夫を心配させてはいけない、自分がしっかりしていなくては、というリザの精一杯な姿を感じて、グッときます。
 オッペンハイマーの友人で医師のヒルデは、もっとわかりやすく強い。自宅を占拠するソ連軍を屁とも思わず、動じません。
 踊り子のリタは、彼女に入れあげるソ連軍将校を掌の上で転がし、取れるもの取ったら、ポイッ。
 いやぁ、女って……強かだなぁ、しなやかだなぁ。
絶望の中に、確かな拠り所が描かれている。それも『終焉』をおススメするポイントです。

 この夏一番の納涼本、『終焉』をぜひ、ご一読ください!

*追記* 前作『オーディンの末裔』のお気に入りポイントだった、「エデのビールの蛇口」は、戦渦に巻き込まれてしまいました。お早い復興・新装開店を願ってやみません。やっぱり欲しいぞ、ビールの蛇口。暑い夏には、ビールの蛇口。

(集英社文庫担当編集・D) 

 






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