ミステリのおもしろさに目ざめたころのことを憶えていますか。
 私は、クリスティからこの世界に足を踏み入れた口でした。当時はまだ小学生で、お小遣いもそれほど多くはなかったのですが、幸運にも明治生まれの祖母がなぜか翻訳小説好きで、私の買ってきたクリスティを気に入り、「あれを買うならおばあちゃんもお金出すよ」と、時おり臨時のお小遣いを握らせてくれたのです。ぎりぎり一冊、たまに二冊ぶんのお金を持って本屋さんへ自転車を飛ばし、次はどれにしようか迷う楽しさ。手のひらに載せた本の重みは、これから目の前に開ける謎――ミステリ――の重みでした。
 
 すっかり忘れていたそんな記憶がまざまざとよみがえったのは、この作品が完璧なクリスティへのオマージュであり、“クリスティの新たな一冊”を紐とく楽しみを久方ぶりに味わわせてくれたからだけではありません。この小説の語り手として登場する編集者、スーザン・ライランドが、まさに私と同じようにクリスティを読んで育ち、いまはミステリを編集する仕事をこよなく愛している人物だからです。
 このスーザン、ミステリを読めばあやしい登場人物をリストアップして疑わしい点をまとめ、小説内の描写だけではなく、「この作者の作風ならこういう展開もありうる」「この登場人物はあやしすぎるから逆に犯人ではないだろう」「この人物が犯人なら物語として盛りあがるかも」などという観点も合わせて犯人を割り出そうとします(はい、ミステリ好きのみなさん、身におぼえがありますね?)。そして、ミステリへの愛、自分のミステリ論を、作中でもう語る語る。登場人物の命名法から舞台となる場所の設定について、さらにはミステリの魅力とは何か、探偵とはどんな存在なのか……自分の大好きなものについて、自分と同じくらい、いや、ひょっとしてそれ以上の熱量で語りつづける人を見ていると、つい「私はこうだった」「私はこう思う」と、無理やりにでも話に参加して語りあいたくなりませんか? そんなふうにして、私はこの作品を読みながら、いつしか自分がミステリを愛するようになった歴史をじっくりとふりかえっていたのでした。
 
 スーザンの語るミステリ論に、わかるわかる! と小刻みにうなずきつづけていた私ですが、中でもっとも鋭く心を撃ちぬかれ、そう! そうなんだよね! と大きくひとつうなずいて、しばらくその余韻を噛みしめていた一節がこちらです。

 ミステリとは、真実をめぐる物語である――それ以上のものでもないし、それ以下のものでもない。

 この『カササギ殺人事件』は、まさにそうした物語です。最後に胸震える感動が待っているわけではない。泣ける箇所もこれといってなければ(私が個人的にスーザンに感情移入しすぎて、ちょっと涙ぐんだ箇所はありますが)、抱腹絶倒の笑いがちりばめられているわけでもない(ミステリ好きなら、ついにやりとしてしまう箇所はちらほら)。この作品の最大の魅力は、もつれにもつれた謎がふいに解け、すべてがすとん、と腑に落ちる、まさにその一瞬の快感にあるのです。私はこの快感にとりつかれてミステリを読みはじめ、そしていまだに読みつづけているのだと、あらためて確認させてくれた作品。そういう意味で、『カササギ殺人事件』は私にとって特別な一作となりました。
 
 ふいに真実が目の前に現れる快感を、これ以上ないほど強烈に演出するために、この作品は特異な構成をとっています。真実が知りたいと焦れるミステリ好きの心を、まるで人質に取って容赦なく振りまわすかのような。上下巻という長大な小説ではありますが、あなたの手のひらに載ったこの二冊には、まさに二冊ぶんの謎――ミステリ――がずっしりと詰まっているのです。どうか、これまでずっとミステリを愛してきたかた、そしてこれからミステリを愛するようになるかたに、存分に楽しんでいただけますように。
 

山田蘭(やまだ らん)
 文芸翻訳家。ミステリの訳書は、ディヴァイン『悪魔はすぐそこに』『三本の緑の小壜』『そして医師も死す』ベイヤード『陸軍士官学校の死』(いずれも創元推理文庫)など。西の地のとある干潟のほとりで、小さな垂れ耳うさぎを愛でながら暮らしています。

 

■担当編集者よりひとこと■

「すごい作品ですよねー」
「本当に面白いですよねー」

「訳していて気が付いたんですけど、ここも伏線ですよね!」
「あ、そこが……ぼくも感心しました!」←気づいてなかった

 編集中、訳者の山田蘭さんと何度こんな会話をしたことでしょう。
 本当にクリスティが好きなんだなあと思わずにはいられない完コピぶり、いったいいくつあるんだろうという仕掛け、そして何よりミステリを読む純粋な楽しみ!
 読み終えた編集部のラムネ好きの後輩は「おもしろーい!!」とMPが吸い取られそうな謎の踊りを舞い(なんて会社だ)、途中まで読んだ上司は「仕事どころじゃない。早く家に帰って続きを読みたい!!」と叫びました(なんて会社だ)。
 また、この作品はゲラ版モニター企画を実施し、読者の方々に熱いご感想をたくさん頂戴しました。下記に一部をご案内しておりますので、こちらもご覧いただければ幸いです。
http://www.webmysteries.jp/topic/1809-04.htm
 秋の夜長、ぜひ『カササギ殺人事件』でお楽しみください。

(東京創元社T・K) 




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