2018年は、我が国における「キム・ニューマン復活の年」となりました。まずは、鍛治靖子さん訳の《ドラキュラ紀元》シリーズ復刊(アトリエサード)。現在第二作まで刊行されていますが、大幅に増補されているので、創元推理文庫版で読んだ方にもオススメです。
 そして――わたくしの訳しました『モリアーティ秘録(上・下)』(創元推理文庫)です。
 本作はひとことで言えばホームズ・パスティーシュではあるのですが、主人公はシャーロック・ホームズではありません。それどころか、宿敵である犯罪王ジェイムズ・モリアーティ教授が主人公なのです。しかもその相棒にして記録係(つまりワトスン役)は、犯罪組織の副官であるスナイパーのセバスチャン・モラン大佐です。犯罪者向け銀行の貸金庫から原稿が見つかったり、下宿は娼館の二階だったりと、設定もいちいちホームズ&ワトスンの「裏返し」になっています。
 各章(エピソード)は、「血色の記録」「ベルグレーヴィアの騒乱」「赤い惑星連盟」「ダーバヴィル家の犬」……と、ホームズ正典のパロディになっています。しかしそこはキム・ニューマンだけに一筋縄ではいきません。各篇に「+α」があるのです。「血色の記録」は『緋色の研究』に有名な古典的西部小説をまぜあわせたもの、「ベルグレーヴィアの騒乱」は「ボヘミアの醜聞」+『ゼンダ城の虜』、「ダーバヴィル家の犬」は『バスカヴィル家の犬』+『テス』という具合です。更に更に、《ドラキュラ紀元》シリーズ同様、様々な小説や映画のキャラクターがこれでもかとばかりにぞろぞろ登場するのです。
 そういったキャラクター名など固有名詞はなるべく訳注で補うようにしましたので、「これ誰?」ということがありましたら、ご参照ください。一方、ホームズ関係はあまりにも多いので、注を付けなかった部分もあります。そんなところに気づかれましたら、「これはアレだな」とニヤリとしてください。
 本作の原書が刊行されたのが、2011年の11月。一通り読んで、あまりの面白さにすぐさま東京創元社さんに「是非、翻訳権を取って下さい!」とお願いしました。OKが出て2012年から翻訳を始めたのですが――刊行まで丸七年かかってしまいました。当方の創作の単行本が連続して翻訳にほとんどタッチできない年があったりしたせいでもありますが、とにかく翻訳作業には本当に苦労したのです。まずは英語。《ドラキュラ紀元》シリーズは三人称で書かれていますが、本書はモラン大佐の一人称。彼の書き残した記録、という設定なので、古い言い回しがばんばん出てきます。しかも彼は悪党ですから、きたない俗語も使います。辞書で単語を引いても、後ろの方に〈俗〉とか〈古〉などと書かれている語釈ばかりです。ニューマンのくせとして、結構面倒な構文もありました。それを読み解くのにひっかかり、ずっと作業はしているのに一ページしか進まない、という日もありました。
 それから、出てくる固有名詞、特に人名。ホームズ正典に出てくるキャラクターや地名ならすぐにわかりますが、古い犯罪映画のキャラクターとなると、いちいち調べなければなりません。翻訳をしているのか調べものをしているのかわからなくなったりする時もありましたよ。
 固有名詞は調べればまだなんとかなるのですが、原典となる小説の文章そのものをもじっている部分があったのには参りました。例えば「赤い惑星連盟」なのですが、原文を読んでいて「はて? この文章、覚えがあるぞ」となりました。そこは一見普通の文章なのに、実は『宇宙戦争』中の文章のもじりだったのです。昔ミュージカル版『宇宙戦争』のアルバム(名盤ですよ!)を死ぬほど繰り返して聞いていたのですが、そのおかげで、件の部分が頭に刻み込まれていて気がつきました。
 そうこうするうちに、アトリエサードから《ドラキュラ紀元》シリーズの改訳・増補版が出るという情報が聞こえてきました。それならばキム・ニューマンが盛り上がっている同じタイミングでこちらも出したい、ということでラストスパートをかけました。そしてなんとかぎりぎり、2018年のうちに刊行できることになったわけです。
 原書刊行から七年も経ってしまい、大変お待たせしたのは申し訳なかったのですが、そのせいでいいこともありました。その間に「モリアーティ教授」の知名度が一気に上がったことです。昔、某ホームズ映画のラストで「モリアーティ教授」の名前が出た際、一般観客はぽかんとしてしました(アニメ『名探偵ホームズ』を観ていたらしい子供は「あれ、悪いやつだよ!」と言っていましたが)。かつては、そんなものでした。
 しかしBBCドラマ『シャーロック』やガイ・リッチー監督映画『シャーロック・ホームズ』及びその続篇が大ヒットしたおかげで、モリアーティの名前も知られるようになりました。更にはコミック『憂国のモリアーティ』(竹内良輔・構成/三好輝・画)が発表されました。モリアーティが主人公、しかもタイトルになっているコミックが我が国で描かれる日が来ようとは思いませんでしたよ。そして、某ゲームのキャラクターとしてもモリアーティが登場しました(ネタバレになるらしいのでタイトルは伏せます)。なんともいい時代になったものです。先日、特にホームズ系ではない読書会(ミステリ好きはいるけれどもミステリ限定ではない)に参加した際、モリアーティ教授を知っている人に挙手してもらったら、半分近くの方が知っていました。昔に比べると、とても信じられません。
 しかもゲラ作業の途中で、本作のドラマ化企画が動いているというニュースが飛び込んできたではありませんか! このような企画の全てが実現するとは限りませんが、何年もかけて翻訳していたのが、結果としてベストのタイミングになったようです。
 ともあれ、ひたすら面白い小説が好きだという方、すれっからしのシャーロッキアンだという方、皆様にお楽しみ頂けると思いますので、是非ともお読みください。

北原尚彦(きたはら なおひこ)
 1962年生まれ。作家・翻訳家。訳書に、バークリー他『シャーロック・ホームズの栄冠』、『ドイル傑作集』全五巻(共編訳)、エジントン他『ヴィクトリアン・アンデッド シャーロック・ホームズvs.ゾンビ』など。翻訳だけでなく、小説『シャーロック・ホームズの蒐集』、エッセイ『シャーロック・ホームズ 秘宝の研究』なども書いています。ホームズ関係なら何でもいけるクチです。

 

■担当編集者よりひとこと■

 かつてジャック・ケッチャム『森の惨劇』(扶桑社文庫)が刊行された際、職場の先輩にこう聞かれたことがある。「えーとなんだっけ、今度のケッチャムの新刊。『マリファナ畑で捕まえて』?」
 原型をまったく留めないその題名は、しかしこれ以上なく内容に即したもので、その優れた要約力に感嘆するほかなかったが、その人がまたやってくれた。
「これさ、シャーロック・ホームズ・パスティーシュじゃなくて、ホームズの魔改造だよね」
 本書『モリアーティ秘録』を指しての言葉である。
 
 ホームズがガンダムだとすれば、この作品は……バクゥ? というか、もはやゾイドみたいなものだろう(ちなみにロバート・L・フィッシュはベアッガイ)。ホームズ・パスティーシュの創作者のスピリットは同じ場所に根ざしているはずだが、出来上がった作品群を見渡してみても、『モリアーティ秘録』は他に比べてあまりにも異質な構造となっていることが判る。
 訳者の北原氏の言葉にあるように、この物語はホームズ譚のみならず、全く別の作家による小説・映画やそれに登場するキャラクター、果ては実在の人物まで巻き込んで創り上げられた世界の上に成立している。しかし、その引用元があまりに多岐に渡っているが故に、キム・ニューマン以外に書くことが不可能な、強靱なオリジナリティを誇っているのだ。
 また、パスティーシュというと元ネタを知らないと読めないのでは……と思われがちですが、心配ご無用。シャーロッキアンはもちろん、ホームズ(やそのほかの作品)を全く知らなくても楽しめること請け合いです。だって本家の蹂躙のされ方が並大抵じゃないからな!
 とはいえほんの小さなネタまでがいちいちホームズ譚から取っているのはまさに愛情のなせる業。これはニューマンによるかの「名悪役」への壮大なラブレターで、その思いがあまりあるがゆえに、大勢の人びとに愛される小説となってしまった、奇蹟の傑作と言えましょう。

(東京創元社 R・F)

 
 




■【随時更新】訳者自身による新刊紹介■バックナンバー一覧