はじめまして。郭強生『惑郷の人』の訳者の西村です。ミステリ・ファンのみなさんにこの台湾の小説の魅力を紹介できることになり、嬉しく思っています。
 著者の郭強生は1964年生まれ、台湾大学卒業後、アメリカのニューヨーク大学大学院で演劇を専攻し博士号を得ています。花蓮・国立東華大学を経て現在は台北の国立台北教育大学で教鞭を執っています。学者が書いた小説というと、堅苦しく思われるかもしれませんが、本書は実際にはエンターテインメントとしても楽しめる小説となっています。ミステリの要素もあることから、ここで紹介させていただくことになりました。
 
 台湾の作家・文学研究者の紀大偉は、郭強生の小説を論評して、彼の小説創作時期を初期の通俗文学の時期と、その後の純文学の時期とに分けています。演劇の研究や実践に従事し小説の執筆が途絶えていた2000年代がその分水嶺で、この二つの時期は、短篇の青春小説を書いていた時期と、長篇小説の時期と言い換えることもできます。そしてこの純文学の時期にあたるのが、一つの長篇小説とみなすことのできる連作短編小説集『夜行之人』(2010年)、真の意味で最初の長篇小説となる『惑郷之人』(本書、原著は2012年)、そして最新長篇小説の『断代』(2015年)です。
 これらの小説は、多くの紙幅を割いて台湾の社会背景、特に複雑なエスニシティやセクシュアル・マイノリティを描いているという意味では「純文学」ということになるのでしょうが、それだけには収まらない面白さを持っています。紀大偉は、これらの小説を語る際、芥川龍之介の「藪の中」や吉田修一の小説を引き合いに出しています。確かに、純文学とエンターテインメントの間を自在に行き来する吉田の作風は、郭強生と共通しています。ですが、私が『惑郷の人』を訳していてさらに強く感じたのは、東山彰良『流』(2015年、直木賞受賞)『僕が殺した人と僕を殺した人』(2017年、読売文学賞受賞)などとの類似です。両者とも謎をはらみながら展開するプロットに台湾や中国の歴史的、文化的背景を溶け込ませたものであり、東山彰良ファンならこの『惑郷の人』も必ずや楽しめることでしょう。
 
 簡単に本書の内容を紹介します。本書は1973年に台湾で撮影が開始された『多情多恨』という未完の映画の謎をめぐって展開していきます。三部構成となっており、第一部では1973年、1984年、2007年の時代が交錯します。第二部は死後の世界が描かれます。第三部はまた現世へと戻り、第二次大戦中から2010年までの世界が描かれます。その中で中心人物として描かれるのが、植民地時代の台湾で生まれ育った映画監督の松尾森、その孫で祖父の足跡を調査するアメリカ生まれの研究者・松尾健二、そして松尾森に俳優として抜擢される台湾の少年・小羅(中国大陸出身の兵士の息子)の三人です。それぞれが自分のルーツとは異なる土地で生まれており、故郷喪失者の性質を帯びています(本書の題名『惑郷の人』も、自分の故郷がどこであるのかについて戸惑う人という意味です)。
 これから『惑郷の人』をミステリとして読もうとする方に対しては、「ネタバレ」は避けるべきだと思うので、これ以上の本書の詳しい内容については、「訳者あとがき」を本篇のあとにお読みいただければと思います。ここでは、小説中に登場する映画や音楽について紹介したいと思います。
『惑郷の人』が描く時代は1941年から2010年までの長期間にわたっています。この長い時間は、映画という縦糸でつながっており、この小説には様々な映画が登場します。
 登場する映画を時代順に並べると、以下のようになります(小説内ではランダムに各時代の描写が現れるので、必ずしもこの順に登場するわけではありません)。『支那の夜』(日本、1940年)、『海辺の女たち』(台湾、1963年)、『西施』(台湾、1965年)、『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日本・台湾、1966年)、『ドラゴン怒りの鉄拳』(香港、1972年)、『戦場のメリークリスマス』(日本・イギリス・オーストラリア・ニュージーランド、1983年)。
「訳者あとがき」でも、訳者がこの小説から連想した映画として1988年のイタリア映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(映画と郷愁を扱ったものとして)、2012年の台湾映画『GF*BF』(三人の若者の友情とセクシュアリティを扱ったものとして)、2013年の台湾映画『おばあちゃんの夢中恋人』(台湾語映画の盛衰を扱ったものとして)、2015年の台湾映画『湾生回家』(文字通り湾生を扱ったものとして)などに言及しました。私は作者がこれらの映画を意識した、と言いたいわけではありません(小説出版の後に公開された映画もあります)。ですが、このような映画と小説を対照させることで、より深い読解が可能でなるのではないでしょうか。
これ以外にも、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(『惑郷の人』中に言及あり)を下敷きにしたデイヴィッド・ヘンリー・フアンの戯曲『M.バタフライ』およびその映画化である『エム・バタフライ』(アメリカ、1993年)を作者が意識したことは疑いないだろうと思います。そういえば『エム・バタフライ』もミステリ仕立てのプロットでした。
 音楽について言えば、李香蘭が『支那の夜』の中で歌い、レコードは渡辺はま子が吹き込んだ「蘇州夜曲」(1940年)や、テレサ・テン(鄧麗君)がLP『淡淡幽情』の中で歌った「独上西楼」(1983年)なども効果的に使われます。
 ところで、翻訳中に悩んだのは、どのようにして台湾の言語的複雑さを訳文に反映させるか、ということでした。具体的には、標準中国語(国語、マンダリン)といわゆる台湾語(閩南語、ホーロー語)をいかにして訳し分けるか、ということです。私は台湾語で話されたと考えられる台詞については、(私の母語である)関西弁で訳すことにしました。自分でもいささか冒険的すぎるのではないかと思ったのですが、いまのところ概ね良い反応を頂いており、胸をなでおろしている次第です。
 台湾や日本を含む東アジアの歴史、映画、音楽など織りなす重厚な物語。ミステリの要素を含め、読者の皆様に楽しんでいただければ訳者としても嬉しく思います。

西村正男(にしむら まさお)
『惑郷の人』の主人公の一人、松尾健二と同様に高知県出身の両親を持つが、横浜生まれの大阪育ち、中学・高校は京都で、大学は東京で学ぶ。中国文学を専攻し博士(文学)を取得。関西学院大学社会学部教授。訳書には郭強生『惑郷の人』の他、『白蟻の夢魔』(台湾熱帯文学シリーズ4、共訳、人文書院)がある。近年は主に中国語圏のメディア文化史を研究している。

 

■担当編集者よりひとこと■

「湾生」という言葉を知っていますか? 日本統治時代の台湾で生まれた日本人のことです。『惑郷の人』には、ほかにも「外省人」「本省人」など、台湾ならではの言葉がでてきます。でもご安心を、台湾と日本の歴史を知らなくても存分に楽しめます。事件の犯人を追いつめていくような物語ではないので、『惑郷の人』の謎解きは読む人それぞれパズルのように、読むたびに、探していたピースが見つかったり、欠けたピースに気づかされたり。時代背景を知れば、さらに新たな謎に出会えるかもしれません。
『惑郷の人』は少年たちの流転の物語ですが、作品の終盤で、私はひとりの少女に幻惑されていたことに気づき、現実世界の見え方まで変わる思いでした。謎でもなんでもなかったはずなのに、残されたのは静かな余韻。
 故郷喪失の惶惑だけでなく、死の疑惑、痴情の魅惑、身体の煽惑、歴史の蠱惑、記憶の困惑、スターへの眩惑……。さまざまな惑いが謎をよぶこの作品に、あなたも惑わされてみませんか?
 
 本書は「台湾文学セレクション」の4冊目です。台湾の文学が気になってきた方のために、他の3冊についてもご紹介させてください。

1『フーガ 黒い太陽』洪凌(櫻庭ゆみ子訳)

 母と娘の葛藤物語を装うリアリズム風の一篇から、異端の生命・吸血鬼、また奇怪なる異星の存在物が跋扈する宇宙空間へ。クィアSF小説の短篇集。

2『太陽の血は黒い』胡淑雯(三須祐介訳)

 戒厳令解除後に育った大学院生を語り手として、日常のなかに台湾現代史の傷痕が掘り起こされていく。もと政治犯や、精神疾患者、セクシュアル・マイノリティなどが忘却にあらがい語りだす傷の記憶に寄りそって、短篇をコラージュするかのように紡がれる長篇小説。

3『沈黙の島』蘇偉貞(倉本知明訳)

 香港の離島で暮らし、アジア各地で活躍する女性が、国家や民族、階級、ジェンダーといった枠を脱ぎ去り、個/孤としての自分を見いだす物語。

 ミステリ・ファンにはまず『惑郷の人』を、続いて『太陽の血は黒い』をお薦めします。お手にとっていただけると嬉しいです。

あるむ 編集担当 Y)

 
【参考】朝日新聞デジタル掲載記事
文化>ディアスポラの流転を描く:台湾文学「惑郷の人」作者・郭強生さんに聞く



■蘇州夜曲 李香蘭■

■獨上西樓 – 李煜 / 詞、鄧麗君 / 唱 ■

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