第4回

 ここ2、3年、イクメンという言葉をよく聞く。

 最初聞いたときは、イクメンてなんだ、イってしまう男? ソウロウ男のことか、などとよからぬ連想をしてしまったものである。

 加齢臭をカレーのにおいと思い込んでしまうのといっしょだ。

 正解はいうまでもなく「育児をする男」のこと。

 そういうことなら、自慢ではないが、僕もかなりのイクメンだった。

 なにしろ、翻訳という商売は、年がら年中家にいる仕事である。

 2人の子どもの子育て期間は、それこそ朝から晩までヒマさえあればおつい合いしていた。幼いときはオムツを替え、少し大きくなったら真っ昼間から公園にいっしょに遊びに行き、病気になれば病院に連れていき、夜は夜でせがまれるままに何冊もの絵本を読んで聞かせていた。合計したら、読んで聞かせた絵本の総数は間違いなく1000冊を超えているだろう。

 しかし、とくに自分がイクメンで(当時はそんな言葉はなかったが)育児をしているという意識はまったくなかった。子どもがいつもそばにいて、そうするのがごくごく自然のことだったからである。会社員だったら絶対にそうはいかなかっただろうから、翻訳家はイクメンになるにはうってつけの職業だということになる。おかげで、日本の平均的な父親の何百倍もの時間子どもと接してこられたし、子どもが大きくなった今でも、延長線上でごく自然に接することができている。幸せなことだと思う。

 絵本をたくさん読んだおかげでおもしろいことも発見した。

 例えば、図書館で借りた昔の絵本の古い翻訳は、なんとスパゲッティを「うどん」と訳していた! もう20年近く前のことなので、記憶は定かではないが、あれは〝おさるのジョージ〟の昔々の版だったか? スパゲッティを「うどん」と訳さないと通じなかった時代もあったのかと思うと、翻訳で物事を伝える難しさを改めて感じてしまう。

 絵本が本当は怖くて危険なものであることも知った。 

 ピーターラビットは子ども向けの絵本として人気が高いが、あの第1話『ピーターラビットのおはなし』はほんとに危ない。なにしろ、お母さんが買い物に出かけるとき、ピーターラビットら子どもたちにわざわざ「森のみちであそんでおいで」と外に出ているようにうながすのである。しかも、お父さんが肉のパイにされてしまったので、「マクレガーさんのはたけにだけはいっちゃいけませんよ」と誘導するようなことをいう。まともな親だったら、「家でおとなしくお留守番していなさい」というはずである。少なくとも僕はそうしてきた。幼い子どもたちにわざわざ外に出ているように指示する親など、虐待に近いものを感じる。

 ただ、子どもに読み聞かせといっても、僕の場合、かなりいい加減で、絵本ばかり読んでいたのではない。4、5歳の子どもに平気で『カムイ伝』やら『がきデカ』やら『こち亀』やら、マンガを読んでやったりしていた。たまたま手もとにあったマンガを読んで聞かせてやったら、いやがらなかったからである。その他、『ふしぎの国のアリス』の大人向け文庫版を何日もかけて読んだり、とりわけ村上春樹作『羊男のクリスマス』は挿絵付きということもあり何度も読んでやったものだ。

 なにせ、子ども向けの本というやつは、「……なのです」「……したのです」「……のでした」みたいな、いかにも幼い子ども相手のまだるっこしい文体が多数を占めるうえ、親の良い子願望が丸出しのものも多々あり、そればかりだとこっちとしては(たぶん向こうも?)辟易してしまう。そんなわけで、たまにはいいだろうと変化をつけていたのである。

 子どもに読み聞かせをしているうちに、児童文学に興味を持つようになり、『黄金の羅針盤』や『アルテミス・ファウル』といった児童向けファンタジーを訳す機会にも恵まれた。イクメンの体験がなければ、決してそういうチャンスはなかっただろうから、子どもには心から感謝している。

 しかし、イクメンなどをやっているうちは、大好きだったハードボイルドの小説を読んだり訳したりする気分にはどうしてもなれなかった。現実とハードボイルの小説世界がかけ離れすぎていて、訳したりしたら裏切り行為のような気がしていたのである。〝イクメン探偵〟だったらピッタリだったろうが……

 最近は子育ても一段落し、ようやく大人の世界に帰り、素直にハードボイルドを読んだり訳せる気持ちになっている。タフでやさしくなけりゃいけない小説をまたどんどん訳してみたいものである。

大久保寛(おおくぼ かんORひろし)。早稲田大学政経学部卒業。訳書に、プルマン『黄金の羅針盤』、コルファー『アルテミス・ファウル』、スケルトン『エンデュミオンと叡智の書』、クーンツ『ファントム』、クラムリー『ダンシング・ベア』など。東京都中野区生まれ、埼玉県在住。

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