語学の勉強には(もちろん翻訳の仕事にも)辞書は必須。昨今は、電子辞書やらオンライン辞書やら、持ち運びにも便利で効率よく調べることができ、とても重宝している。で、ラテン語となると……私の通う日伊協会のクラスでは、イタリアの高校教科書を使っているため、羅伊辞典が必要になる。私が使っているのは、Le Monnier出版の『Dizionario illustrato della lingua latina』という、厚さが10センチほどもある大辞典。デジタル辞書とは違い、めあての単語を探すのに時間はかかるが、illustratoとあるように、ローマ時代の遺物の写真やイラストなどが載っていたり、探している単語とは関係ない単語が目にはいったりして、重いけれど紙の大辞典もなかなか楽しい。ちなみに、ラテン語の師であるリッカルド・アマデイ先生(イタリア語通訳・翻訳の第一人者で、最近の翻訳書には、ウンベルト・エーコ『歴史が後ずさりするとき』があります)のお父さんは、先生が子どものころ、「辞書や教科書が重いのは、知識がいっぱい詰まっているからだ」と、よく言われていたそうだ。

 とはいえ、いまどきのインターネットに溢れる情報量は大辞典とは比べようがない。特に画像や映像データは、翻訳作業中、行ったことのない土地や見たこともない外国の物に出くわしたとき、とても役立つものだ。Google Earthの航空写真やストリートビュー、投稿写真などと照らし合わせると、原書の描写と細部までそっくりだったりして、著者も同じものを見て書いているなと、勝手に勘ぐったりしてしまう。

 そのきわめつけがフランク・シェッツィングの『LIMIT』。2025年の地球と月を舞台にした近未来サスペンスで、中国・ドイツ・イギリス・赤道ギニア・カナダ・アメリカ・イタリア……そして月のシーンが次々と登場する。聞くところによるとシェッツィングは飛行機恐怖症らしく、おそらく取材旅行には出かけていないだろう。ましてや月に行けるわけがないし。少なくとも月のシーンはGoogle Moonや、そこに載っているJaxa(宇宙航空研究開発機構)の「かぐや」が撮影した映像を参考にしたにちがいない。だからといって、著者を責めているわけではありません! 「月の北極から見た地球の出」などの映像は本当に素晴らしく(シェッツィングの描写もそっくりですが)、月に興味のない方でも一見の価値は十二分にあると思う(『LIMIT』を読みながらご覧いただけると、一層の臨場感を味わえるかもです!)。

 ところで、クレータなど月の地形名の多くには、地球上の地名や人名が使われている。『LIMIT』で、月のホテル「ガイヤ」があるのはアルプス山脈のアルプス谷。(ちなみに月の地形名はラテン語表記が標準で、アルプス山脈はMontes Alpes、アルプス谷はVallis Alpesです)。アルプスは月でも観光地のようで、Google Moonで見ているだけでなく、いつか行ってみたいが、まだまだ一般人は行けそうもない。

 そこで本家本元、地球のスイスアルプスと、そこを舞台にした小説のお話を少々。

 いわずとしれたスイスアルプスで、誰もが訪れるのがユングフラウやアイガーで有名なベルナーオーバーランド。名峰が聳え、グリンデルヴァルト村やベンゲン村がある地域だ。雪質に優れた一大スキーエリアであり、夏はトレッキングに最適な、高山植物が輝くコースが揃っている。スキー好きなら、ワールドカップで有名なベンゲンの滑降コースや、映画007で秘密基地があることになっているシルトホルン山頂からのコースをよくご存じのことだろう。なにをとっても素晴らしい観光地だが、私にとって最も驚異なのはユングフラウ鉄道の存在だ。麓からアイガーの山の中を文字どおりぶち抜き、標高3454mのユングフラウヨッホに到達する観光鉄道である。なんと1898年に会社が設立され、1912年に完成している。100年も前の話だ。さらにユングフラウ山頂までの延伸計画もあったらしい。今なら全体がロープウェイというかゴンドラの設置だろう。終点のユングフラウヨッホ駅はそれ自体が観光施設になっていて、屋上ベランダからアイガー、メンヒ、ユングフラウの各峰と、北にはグリンデルヴァルト村の下界風景、そして南にはグロス・アレッチ氷河が果てしなく続いているのが見える。ボブ・ラングレー『北壁の死闘』(創元推理文庫)は、ここを舞台に連合軍とドイツ軍の特殊部隊の山上での激突が描かれている。嵐の中をグライダーでグロス・アレッチ氷河に着陸し、ユングフラウヨッホの研究施設を襲い、氷のアイガー北壁を生きるための道に使うという設定だ。創元推理文庫版の巻末には、石室岳さんの、安楽椅子探偵になぞらえた安楽椅子クライマーの素敵な一文が添えられている。

 スイスの山が出てくる物語といえば、『シャーロック・ホームズ 最後の事件』はミステリファンあまねく知るところである。インターラーケン近くのマイリンゲン村、そしてライヘンバッハの滝が舞台だ。この辺は、グリンデルヴァルトから少し谷沿いに東に進んだところだ。

 ミステリではないが大古典、トーマス・マン『魔の山』は、ダボスの結核療養所を舞台にしている。現代人には、ダボスは著名人が世界経済を語るダボスセミナーの場所として知られているかもしれない。行った人によれば、セミナー期間中、ダボスのホテルは著名な経済人や政治家に占拠され、一般人は容易には泊まれないらしい。その人は、ダボスから車で2時間弱、アルプスの少女ハイジの村マイエンフェルトの、その名もハイジホテルに泊まって、ダボスのセミナーに通ったそうだ。

 スイス・イタリア国境のとんがり山、美しいマッターホルンは、イタリア側ではモンテ・チェルビーノという。マッターホルンの麓のツェルマット、イタリア側のチェルビニアも、私は夏冬何回か訪れたことがある。最近の欧州では国境の持つ意味が昔ほど重大ではないだろうが、スキーのまま国境が越えられるのがユニークだ。

 スイスは山の中でも食事は美味しい。山越えでグスタード付近を車で通ったとき、まったくなんの気なしに入ったパン屋さんのパンがとてつもなく美味しかった。滞在型ホテルではイタリア人シェフが腕を振るう。ちなみに、スイスのある高級ホテルでは、オーナー兼金庫番はスイス人、食堂まわりはイタリア系、部屋まわりはポルトガル人、そして運転手さんなど外まわりの力仕事は東欧系のような役割分担になっていて、欧州社会の一面を見たような気になったものだ。

 スイスのもう一つの魅力は湖だ。大小たくさんの美しい湖がある。成分のせいか、緑色やエメラルド色の湖もあった。スイス在住の友人といつか一緒に行ってみたいねと話している山奥の小さな湖、秘境カンデルシュテークのエッシネン湖には生きているうちに訪れたい。

 スイスの湖畔が舞台となったミステリとしては、これぞミステリ世界の大傑作、ギャビン・ライアル『深夜プラス1』(ハヤカワ文庫)がある。登場人物の一人、鍵となるフェイ将軍は、レマン湖の畔、モントルーのホテルにモーガン軍曹を従えて住んでいる。『深夜プラス1』に敬意を表して、私もモントルーに行ってみたが、すでに時代遅れの観光地となりつつあるようなモントルー、しかし、まったりとしたお金持ちの避寒地モントルーは、まさにギャビン・ライアルの描いたとおりだった。

 さて、翻訳小説の魅力の一つは、私たちが行ったこともないところに物語のなかで連れていってくれること。さらに、インターネットで舞台の画像を見ながら小説を読むのも楽しいけれど、舞台となった地を自分の足で訪ね、自分の目で見てみたい気にさせてくれることだと思う。そして実際にそこに行けば、その国の歴史や文化、人々の暮らしや考え方を肌で感じることができる。外国の人名や地名は読みにくいとか、ストーリーが長すぎるとか、このごろでは翻訳小説は倦厭されがちのようだ。格言ではないけれど、私の好きなラテン語に、「Non plus ultra」というフレーズがある。ドイツ語ではNonplusultra——この上ないもの、という意味の一語になって、現在もよく使われている。もともとは、その昔、地中海の出口であるジブラルタル海峡の両岸にヘラクレスの柱が建っていて、柱にわたした横断幕にそう書いてあったそうだ。「この向こうには何もないから、行ってはいけない」という警告文だ。その警告を無視してヨーロッパの先人たちは大海原に漕ぎだした。とかく内にこもる傾向の日本人。翻訳者の端くれとしては、もっと多くの人が翻訳小説をたくさん読んで、世界に羽ばたいてほしいと願う今日このごろです。(そうすれば、仕事ももう少し増えるかな……)

北川和代(きたがわ かずよ)。東京在住。ドイツ文学翻訳家。訳書にヴォルフラム・フライシュハウアー『消滅した国の刑事』、フランク・シェッツィング『深海のYrr』、『黒のトイフェル』、『砂漠のゲシュペンスト』、『沈黙への三日間』、『LIMIT』など。

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