その3 新世代の作家たち

 2007年に韓国の出版界において「日流」現象が話題となったが、その一方で韓国推理小説の分野において新しい世代の作家が成長しつつあった。主に欧米あるいは日本の翻訳ミステリを読んで育った世代と言えるだろう。まず、2009年1月に刊行された韓東珍(ハン・ドンジン)の『京城探偵録』を紹介したい。その前置きとして韓国における私立探偵事情について調べてみることにしよう。

韓国における私立探偵事情

『大衆叙事ジャンルのすべて 第3巻 推理物』(理論と実践社、2011)の記述によると韓国では1963年11月に法令によって私立探偵の捜査活動は禁止されたという。ただし戦後の一時期は私立探偵が存在したとし、1946年1月4日付『朝鮮日報』に掲載された「高麗探偵社発足」の記事(広告?)紙面の写真を載せ、「探偵事務所の事実上の存在と業務内容を立証する端緒だ」と解説を付している。その記事には「親日派、民族反逆者……自主独立に障害となる者どもを調査して将来の新政府に報告し……」と書かれているのを受け、同書では「解放以後の政治的混乱の中で探偵行為が政府に協力する公的側面もあったことを窺わせる」としている。果たして、その記事を例証としてそこまで推論を進めていってもよいのだろうか。当時の新聞記事を少し検証してみよう。

 果たせるかな、1946年3月9日付『東亜日報』に「武器多数押収 高麗探偵社代表検挙」の記事が出ている。それによると、検挙された金何某は、「解放後、高麗探偵社の代表となり、普段から恐喝、脅迫、暴行の嫌疑があったのだが、武器と同時に”人民共和国情報員”の腕章も発見された」とのことだ。

 1946年12月18日付『東亜日報』には「革新探偵社に解散命令」の記事がある。そこには冒頭、「私設探偵社等は法令28号に該当するもので認めることはできない……」としている(法令とは当時の占領行政機関である在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁の法令を指しているものと思われる。同法令第28号第3条には「如何なる者及び団体を問わず、如何なる種類の警察、陸海軍軍事活動の召集、訓練、組織、準備及び警務、軍務局の管轄に属する行動を行使することはできない。

 但し、国防司令官或は国防司令官が認定したその権利付与代行機関の書面による認可を得るときは除外する」との条文がある)。

 1950年1月8日付『東亜日報』には、「私設探偵社 治安局で取締」とある。「李治安局長はこの頃巷間に横行し、良民を幻惑させている私設探偵社と自称情報員に対して今後は徹底的に取り締まっていく……」

 1959年4月2日付『東亜日報』には、「幽霊探偵社取締 全国に十余箇所 被害者は申告せよ」との記事が出ている。

 韓国では政治的に不安定な時期に私立探偵社の看板を隠れ蓑に悪事をはたらく輩があとを絶たなかったため、事実上探偵の活動が禁じられたという側面もあるようだ。

韓国のシャーロック・ホームズ『京城探偵録』の登場

 前述の『大衆叙事ジャンルのすべて』では、韓国における推理作品の中で探偵の役割を担う者の特徴として次の3点を挙げている。①”シャーロック・ホームズ”みたいにブルジョアでありながら、警察や検察などの国家権力から自由に趣味で探偵行為を行う場合はほとんどない②”シャーロック・ホームズ”みたいな応接室型の探偵はいない③探偵が恋愛感情を抱き、その感情が推理と問題解決の方向に大きな影響を及ぼす。

 これら三つのタイプに当てはまらない型、つまりシャーロック・ホームズ型の探偵を韓国で初めて登場させたのが、韓東珍(ハン・ドンジン)の『京城探偵録』なのだ。これは韓国ミステリ史上において画期的な出来事だと言える。作者はホームズ型探偵の登場する推理小説を書こうとしたら1930年代の京城を舞台にするしかなかったと述べているが、先にみてきた事情を勘案すると合点がいく。探偵の名前は薛弘柱(ソルホンジュ)、平然と「推理は科学である」と言ってのける合理的思考の持ち主だ。ワトソン役の漢方医王道遜(ワンドソン)、さらにはホ・ドソン夫人まで登場するのだからシャーロック・ホームズのパスティーシュとも言えよう。

 この小説を初めて手に取ったとき、正直いって冷や冷やしながら頁を繰ったことを思い出す。なぜなら韓国では1910−1945までの日本統治時代を「日帝強占期」と呼ぶ慣わしがあり、歴史解釈における自由度は極めて少ないからだ。その点に関しては映画を観ているような客観的叙述を重視することで歴史観を遠景に押しやったことが功を奏しているように思う。歴史上の人物を登場させたり、さりげなく登場人物に時代状況を語らせたりして時代設定にこだわりを見せながらも、謎解きを楽しむための娯楽作品に仕上がっている。当時の往来の風景などが随所に描写され、しかもそのときどきの地理的状況が微妙にプロットに関係してくるのもこの作品の魅力の一つだ。『京城探偵録』とは中・短編5作からなる連作作品集を総称するタイトル。個々の作品名を収録順に挙げると「運のよい日」、「黄金四角形」、「狂画師」、「川辺の風景」、「夕立」となる。ちょっと待てよと思われた方もいるにちがいない。ルパンシリーズの「黄金三角」を真似た「黄金四角形」以外は韓国ではよく知られた近現代文学名作のタイトルをそのまま借用しているのだから。一種の遊び心ともとれなくはないが、秘められた作者の意図を読み解くのも一興であろう。

 連作中第一作のタイトルは「運のよい日」。1924年に発表された玄鎮健(ヒョンジンゴン)の短編小説『運のよい日』から取られている。玄鎮健の小説は、人力車曳きの、せつなくも悲しい一日を描いた作品でしたが、『京城探偵録』では人力車を使った巧妙な犯罪トリックを京城のホームズが見破るという、いうなれば人力車ミステリを考案した点が面白い。この作品を読むと無性にソウルの街を歩きたくなってくるから不思議だ。思い立つとすぐ行動に移すのが私の性分なのか、人力車の跡をたどってみようと実際にソウルへ行って、作者の韓東珍氏にも会っていろいろと話をしてきました。なんと韓東珍氏もまた金来成の『魔人』は愛読書の一つで劉不亂(ユブラン)探偵の歩いた跡を直接自分の足でたどり、そのときの感想をブログに書いているのでした。その感覚はよくわかるような気がします。連続した路上の風景をビデオカメラに収めていくような描写方法はこの作者の持ち味なのかもしれません。

『川辺の風景』は朴泰遠(パク・テウォン)が雑誌連載後、1938年に博文書館から刊行された長編小説で、当時の清渓川(チョンゲチョン)沿いに暮らす庶民の日常をリアリズムの手法で描いた名高い作品だ。一方、韓東珍の「川辺の風景」はさらにローアングルで同じ時代の清渓川界隈を映し出すというか、清渓川に架かる橋の下の穴蔵で群れを成して暮らす乞食集団にレンズを向けるのである。そんな乞食の親分がある日突然、殺人事件の重要容疑者として逮捕され、手下の少年が探偵薛弘柱(ソルホンジュ)に救いを求めることから物語が始まっていく。この少年の名は金斗漢(キム・ドゥハン)。韓国ではテレビ(SBSドラマ「野人時代」その他や映画「将軍の息子」)などでお馴染みの実在した人物だ。

『京城探偵録』の読後、綿密に時代考証を進める作家の姿と奇抜なトリックを思いつく人物像が何かしら意外な印象を受けたが、トリックは主に韓東珍の弟ハン・サンジンが考えるのだという。2012年8月、韓国推理作家協会は同協会の創立三十周年を記念して、会員作家の作品からなる全二巻のアンソロジー『韓国推理小説傑作選』を刊行したが、韓国のコナン・ドイル或いはエラリー・クイーンとも呼べそうな韓東珍は韓国推理作家協会に属していないため、同協会編集のアンソロジーに韓東珍の作品は収録されてはいないので注意を要する。

韓国の本格推理小説

 2010年にデビューした都振棋(ト・ジンギ)は同年、立てつづけに二冊の長編を発表している。闇の弁護士シリーズの第一作『赤い家の殺人事件』と第二作『ラ・トラヴィアータの肖像』がそのタイトルだ。内容は表沙汰にはできない厄介事、あるいは引き受け手のない事件を闇の弁護士が処理を請け負って難事件に挑むという筋書きで、韓国では珍しい本格推理小説だ。パズルを解くような謎解きを主眼にした作品で「日帝」の影はどこにもなく、気楽に読むことができる。特に一作目は凝りに凝った展開で読みだしたら止められない。ただ、日本では感覚的に了解の困難な部分があり、日本での紹介は二作目以降の作品になるのかもしれない。2011年に長編3作目の『精神自殺』を出して以来、短編が主になっているが、何しろ現職の判事なのだから職業作家のようなわけにもいかないのだろう。島田荘司の小説をかなり読み込んでいるとのことで、今後の活躍が楽しみだ。

 判事のミステリ作家と聞いて驚く人もいるにちがいないが、驚くのはまだ早い。私が現在読んでいる韓国ミステリは今年の5月に出た『蝶々捕り』という作品で、作者のパク・ヨングァンはなんと現職の強力(凶悪犯罪担当)係の刑事なのだ。内容は猟奇殺人犯と一匹狼的な刑事との対決を描く犯罪捜査物で、殺人事件調書からヒントを得たものだという。殺人の描写がリアル過ぎるような気もするが、どんな展開になっていくのかはまだわからない。それにしても韓国には多彩な作家がいるものだと思う。

 2011年にはソン・ソニョンが『合作』という推理小説を発表した。これは石垣島に流れ着いた男の死体が韓国人らしいことから日本の上原刑事と韓国のペク・ヨンジュン刑事が合同捜査を始めるという展開だ。両刑事の人物描写が面白い。上原刑事はすらりとしたイケメンで理知的な刑事であるのに反し、いかつい体のペク・ヨンジュンは論理的に思考するよりは勘を頼りに動くタイプで名前がペ・ヨンジュンと似ていることから同僚からはヨン様と呼ばれている。たとえていうなれば、韓国ドラマ「幽霊」(SBS放送/2012.5.30-8.9)におけるソ・ジソプ扮する理知的なキム刑事とクァク・ドウォン扮する行動派タイプのクォン刑事との関係に似ていよう。ドラマの前半はクォン刑事の思考法の単純さに腹が立って仕方がないのだが、回を重ねるにつれ、常に冷静なキム刑事よりも、むしろクォン刑事の熱くひたむきな態度に惹かれた視聴者も多いのではないだろうか。私もそのうちの一人である。

 さて脱線はさておいて、ペク・ヨンジュン刑事もまたクォン刑事同様、上原刑事と協力しあって情熱的に捜査を進め、殺人犯を突き止めるのだが、両刑事とも犯行に至った事情を知るに及んで苦悩におちいるという変則的な推理小説だ。この作品は日本の推理小説を好んで読む韓国人読者から、とくに高い評価を得ているようだ。ソン・ソニョンはつい最近(10月)、世宗時代を背景にした歴史ミステリ『世宗特別捜査隊—シーアイエイ』を刊行している。

番外編 韓国歴史ミステリの傑作『坊刻本殺人事件』

 話ついでに韓国歴史ミステリの傑作を一つ紹介して本稿を終えよう。歴史小説家として知られる李正明(イ・ジョンミョン)が2006年に『根深き木』というハングル創製をめぐる歴史ミステリを発表し、2011年秋、この作品が韓国SBSでドラマ化されたのを機に、河出書房新社から『景福宮の秘密コード』(上下)の書名で邦訳が出た。この作品の原作版は末尾に「訓民正音解例」を付録として付けるなどなかなかの力作だったが、実はもっと凄い作品が埋もれている。

 2003年7月に刊行された金琸桓(キム・タクファン)の『坊刻本殺人事件』(上下)は近年稀に見る歴史ミステリの傑作だ。この小説の現在は朝鮮の文芸復興期とも称される十八世紀の後期、つまりイ・サン(正祖、在位1778—1800)が即位して間もないころに当たる。2007年に韓国MBCテレビの時代劇「イ・サン」で人気俳優イ・ソジンがイ・サンを演じて大ヒットし、俄然注目を集めだした歴史上の一時期でもある。ドラマにも見られるように正祖が即位した当時、クーデターを企てる動きが顕在化するなど政情は不安定だったようで、歴史ミステリにとっては素材に事欠かない時代とも言えそうだ。正祖は基本的には保守思想を重用しながらも、朴趾源・洪大容を中心とする「白塔派」と称される若き実学思想家の面々を官吏として登用することで難局を乗り切ろうとしていた。

 一方、保守層からは強い反発を招いてもいた。そんな政治力学がこの小説に暗い影を落としているのである。

小説のあらすじ

 正祖が即位して間もなく、漢陽(現ソウル中心部)都城内で連続殺人事件が発生する。被害者は若い女性ばかり。九人が魔の手の犠牲になった。捜査を任せられたのは王家とも血のつながりのある若き李明房(イ・ミョンバン)都事(都事は官職名)。武道の達人でもある。事件現場には共通する特徴があった。被害者はみな青雲夢(チョン・ウンモン/「青」は正しくは「」以下同様)という小説家の書いた坊刻本小説を机の上に読みさしたまま死んでいたのだ。結局、青雲夢が有力な容疑者として逮捕され、自白もあって極刑に処せられてしまう。

 刑の執行後、李明房は武術の恩師であり、友人でもある白東修(ペクトンス)に誘われ、白塔派の面々に引き合わされる。その席で青雲夢が白塔派と付き合いがあり、白塔派の誰もが青雲夢は犯人ではないことを確信していることがわかった。李明房は不快な気分を味わうが、白塔派の若き秀才金眞(キムジン)と出遇う。この金眞は大臣の随身としてたびたび燕京(北京)にも行っており、超人的な博識家なのだった。とりわけ植物に関心が深く、南方熊楠を思わせるような人物である。この金眞が探偵役となって真犯人を突き止めていくのである。金眞の予言通り、青雲夢なき後にも手口の同様な殺人が続く。半信半疑だった李明房もさらに連続して新たな殺人事件が起こるに及んで青雲夢が無実であることを確信する。青雲夢には老いた母親と弟と妹がいた。李明房は自責の念にかられながらも、こともあろうに青雲夢の妹に恋情を募らせていく。王からは事件の再捜査の指令が出た。白東修(ペクトンス)と金眞の協力を得て事件を解決せよ、というのである。金眞(キムジン)によれば、青雲夢の小説を読み解くことで犯人に近づくことができるという。手懸りを求めて李明房が雲夢の仕事場に駆けつけると、不審火と思われる火災が発生していた。兄の原稿を守ろうと、燃え盛る仕事場に飛びこむ明玲(ミョンレイ)。そしてためらいもなくあとを追う李明房。このあとふたりはどうなるのか……。

 この小説は連続殺人事件の解明だけでは終わらない。事件の黒幕の影が見え隠れし、李明房は真相の解明に乗り出すことになるが……。

作品の補足

 本書は朝鮮王朝時代、正祖が即位して間もないころを時代背景に据え、当時としては革新的な実学思想の担い手だった白塔派の面々の実相を描くことが第一のねらいだと言えよう。保守派による圧迫を受けながらも国を憂い、真理を追究する熱い思いが対話を通じていきいきと描かれており、作者の力量に驚きを禁じ得ない。政治世界の緊張関係を描くのにミステリのスタイルが適しているのだろう。目に見えない力の存在がひしひしと伝わってくる。ストーリーとは直接関係はないが、随所に配されるエピソードも興味深い。例えば、白塔派の会合の席で日本から初めて朝鮮に象が持ちこまれた話は、その部分だけを読んでも思わず惹きこまれてしまう。

 むろんミステリとしては謎解きの面白さがなくてはならない。その点については欲張った試みが成されている。博識家金眞の名探偵ぶりもさることながら、この作者は出版文化にも関心が深いようで、坊刻本を事件の鍵に据えることにより、謎解きを進めながら坊刻本の製造工程や流通形態について丁寧に描写されていて出版文化史としても興味深い読み物となっている。

 この作者は1968年生まれでいわゆる「386」世代(90年代から2000年代にかけて使われた語。三十代、八十年代に大学生で、六十年代生まれ)に属する。後書きにも書かれていることだが、この作品を執筆しはじめたのは2002年秋のこと。ときあたかも大統領選挙戦で保守派と革新派が激しく争っていた時期だ。結果は革新派が勝利して翌年、盧武鉉政権が誕生する。「386」世代の人材が政界に進出することにもなるのだが、韓国ではそんな現実と対比させて読まれた時期もあったのかもしれない。ともあれ、この作品は独立して読める小説なのだが、壮大な構想の一部でもあり、すでに李明房と金眞が登場して白塔派の面々が活躍する歴史ミステリ白塔派シリーズの続編として、2005年に『烈女門の秘密』、2007年に『熱河狂人』が刊行されている。シリーズ二作目の『烈女門の秘密』は映画化されて2011年の1月27日に『朝鮮の名探偵』のタイトルで封切られ、話題を呼んでいる。

祖田律男(そだ りつお)。神戸在住。韓国語翻訳家。訳書に金聖鍾『最後の証人』、同『ソウル—逃亡の果てに』、アンソロジー『コリアン・ミステリー』など。

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