みなさんこんばんは。第22回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。

 今年のアカデミー賞で作品賞を受賞した『グリーン・ブック』を巡っての議論が続いています。私も日本での劇場公開初日に見てきたのですが、凸凹コンビの道中記として「確かに感じが良くて楽しい映画だ」と感じる一方で、この映画が高評価であると同時に強い批判が起きている問題については「面白かったからいいじゃん」とは絶対言えないよな……という気持ちもどうしても沸き起こってくる作品ではありました。それをきっかけに改めて「今よりも過酷で露骨なマイノリティ差別が当たり前になされていた時代」を舞台にしたアメリカ映画について考えることが増えています。
 
 同時代を描いた『ヘルプ 心がつなぐストーリー』『ドリーム』、昨年のオスカーを受賞している『シェイプ・オブ・ウォーター』はいずれも発表当時高い評価を受けた作品で、なかには個人的に大好きな作品もあるのですが、改めて考えてみると『グリーン・ブック』と同様に(ある部分ではマイノリティとしての痛みを抱えていたとしても)白人女性や白人男性が人種の異なる相手の救い手になっていたり、「フェアな態度」を見せたりすることで彼ら側に近い属性の観客を安心させるというアメリカ映画で伝統的に描かれてきた構図から自由ではないところが多く、「現在でもそのままでいいのか」と問われていくのは必然なのではないかと思います。『ドリーム』が比較的この批判を受けにくかったのは、あくまでも主人公が有色人種の女性たちであるという点が大きいと思うのですが、これはこれでまた「それなら許される」方向にいってしまうと危ういように思うのですよね……
 希望がマジョリティを慰撫するものになるそのときもマイノリティは踏まれている、人種や性別やセクシュアリティ等を越えての共闘や友情が「いい話」の箱に収められてしまう危うさを知ったうえで、ではどんな作品なら「いい話」で終わることなく、異人種間での魂の交流を描くことができているのか?と考えたときに真っ先に思い浮かんだのが今日ご紹介するNetflixの独占配信作、ディー・リース監督の『マッドバウンド 哀しき友情』です。

■『マッドバウンド 哀しき友情』(Mudbound)[2017.米] ■

(https://www.netflix.com/title/80175694)

Mudbound | Official Teaser [HD] | Netflix

あらすじ:泥だらけの地、ミシシッピ・デルタ。ヘンリー・マッカラン(ジェイソン・クラーク)とその妻ローラ(キャリー・マリガン)とその子供、そしてヘンリーの差別主義者の父という一家総出で綿花農場のあるこの地へ引っ越してきた。厳しい自然の中で生きることは過酷だ。しかしここに移ってきた以上、なんとかやっていくよりない。長年この地で生きてきたジャクソン夫妻(ロブ・モーガン、メアリー・J・ブライジ)にも苦労は多い。より良い生活のため、愛するこどもたちのため、人種差別の色濃いこの田舎町で、怒りを押し殺しながら、誇り高くこつこつと努力を続けている。ふたつの家族は日々の生活を必死に続けていた。そしてある日、空軍パイロットとして従軍していたヘンリーの弟ジェイミー(ギャレッド・ヘドランド)と、陸軍戦車大隊軍曹として従軍していたジャクソン家の長男ロンゼル(ジェイソン・ミッチェル)が帰郷してくる……

 今作を見たときの衝撃は忘れられません。1940年代のミシシッピ、厳しい農地で泥の中を血まみれで生きている彼らの人生の脇に居合わせ、共に旅をしていたかのように感じられる135分の素晴らしく凄まじい映像体験でした。複数人物の「その時代のその場所でその状況にある人が言いたくても口に出すことができなかった言葉」が登場人物自身のボイスオーバーとして語られていく、その声を物語に編み込むことで2つの家族の肖像をじっくりと描き切るディー・リース監督の映画表現の豊かさ、人物造型の奥行の深さ! 犠牲の重さが安易な赦しと癒しに落とし込まれることなく、今このときも消えることのない怒りと哀しみが立体的に立ち上がってくると同時に、沸き立つような生きる喜びや愛の力もまた力強く描き出されていくのです。
 
 物語の語り手が次々と入れ替わる――メインキャラクターほぼ全員が入れ替わりながら冒頭のシーンに至るまでに何が起こったかを語り継いでいくかたちで展開されるこの物語で、唯一「自分の声で自分のことを語る」パートを与えられてない者がいて、それはこの映画内で唯一の「何を言うことも妨げられてない」特権者であることからもわかるように、この映画は徹底して「奪われる声」と向き合い続けていきます。その視点こそが大河浪漫を過去の悲劇として消費させることなく「今」につなげることを可能にしているように思います。「奪われる声」は遠い過去の話ではなく、現代にも常に起きている問題とつながっているのですから。
 
 ここにあるのは「愛や友情に肌の色は関係ない」という単純な言説ではありません。肌の色よりも優先される共通項としての戦場経験が男たちを結びつけること。厳しい土地、厳しい時代の中で犠牲を払ってない者などいないとはいえ、特に受動的な生(性)を求められ続けるのが女性であり、彼女たちの発言の権利など誰も意識もしてないこと。現代の倫理は全く共有されていないところに現在と結びつく倫理の萌芽が見えること――あらゆる点で今作は「今」を見据えている作品になっていると感じられることでしょう。
 
 もうひとつ、今作には大きな特色があります。暗闇が深くグラグラと揺れる特徴的な撮影はレイチェル・モリソン。戦時中と農場のシーンのカットバックが実に鮮やかな編集を手掛けたのはマコ・カミツナ。ブルージーで弦の使い方が美しいスコアはテイマー・カリ。原作はヒラリー・ジョーダン。そう、この映画では監督、撮影、編集、音楽、原作がすべて女性なのです。本当ならそれを取り立てて言う必要はないのが理想なのですが(この全てが「男性」であるものは決して珍しくないのですから)、残念ながらまだまだそのような布陣で大作がつくられるチャンスが少ない中で、今作の存在自体がもたらす未来への可能性もまた、非常に大きいものだと思うのです。
 
 冒頭のシーンで誰が何をしているのか、その意味が結末に向かう間にじっくりと解き明かされていくという点で優れたミステリアス・シネマでもある今作、未見の方には是非その力強いナラティブを体験していただければと思います。


■よろしければ、こちらも/『奇跡の大地』ヤア・ジャシ


 現代に書かれた小説で既に「名作」の風格がある大河浪漫といえば、昨年読んだこれも素晴らしい作品でした。1989年ガーナ生まれで幼少期にアメリカに移り住んだ女性作家のデビュー作で、原題はHOMEGOING。HOME 〈COMING〉ではなく、〈GOING〉にならざるをえない者たちの物語。アシャンティ族とファンティ族、それぞれの族長との間に子をなした一人の女性「マアメ」から始まった7世代14人の男女の「ありえたかもしれない/あったに違いない」ファミリーヒストリーが火と水の神話的なイメージを通じて織り上げられていきます。
 恐怖、罪、喜び、怒り、絶望、愛……彼らの苛烈で凄絶な生の遠い先で、「私たちが出会う日は必ず来る」を達成する、その美しさ。それぞれの世代の一人ひとりの物語だけでひとつの小説になるほどの「濃さ」がある、しかしそれがある時期の一瞬として通り過ぎていってしまうその無常観。ページをめくった瞬間に主人公は変わり、遠い地に移り、既に何十年も時が流れているこの壮大な物語は、同時に親密でパーソナルなイメージの宝庫でもあり、過去の登場人物はすぐに背景に、脇役になり、しばしば既にこの世にいなかったりする、それでもその物語を知らない誰かに過去は確かに受け継がれている――という時間の拡がりの描き方が本当に巧みな小説でした。失われ、奪われ、獲得し、再び奪われ――何度も繰り返されてきた魂の痛みの歴史を、現在を生きる私の身体は宿している。クライマックスで生きることの希望を「火への恐怖」「水への恐怖」からの解放に集約していく手つきは本当にもう見事というよりありません。圧巻の読書体験を是非。
 
 社会問題を「遠い国の遠い誰かにあったこと」にしてしまわない、「今」へと繋げる視線を持った作品に出会うたび、自分の知らないことの多さ、無自覚だったことに気づいて恥ずかしくなることも多いのですが、そういう経験がまたさらに新しいフィクションを楽しむ力を自分に与えてくれているのだと思います。だから映画や本はやめられないのよね……なんてことを考えながら、それでは、今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。


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