みなさんこんばんは。第31回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。

 突然ですが、皆さんは「作家の性別」ってどのくらい普段意識されていますか?さすがに2020年にもなって主語の大きい「やっぱり異性のことは書けない」みたいなことを言う人は減ってきたかなあとは思うのですが。一方で、面白かったりつまらなかったりした理由として、性別を絡めて「属性」「実体験」ベースで考えられてしまう、特に「女性」にやたら意味を持たせたい人がいる……というのは今もある程度、残っている傾向なんじゃないかな? とも感じるんですよね。インターネットを見ていると。

 最近『〈女流〉放談――昭和を生きた女性作家たち――』(イルメラ・日地谷=キルシュネライト編)を読みながら、そんなことを考えていました。


 これ、べらぼうに面白い本なのですよ! 80年代にドイツ出身の日本文学研究者(女性)が日本の女性作家たちをインタビューした記録で、ものすごくエキサイティング。40年近く前にも関わらず、ここで語られる「日本で作家であり、女性であること」は「今、まさに語られるべき」話題だらけ。まっすぐにぶつかってくるインタビュアーに作家も全力で向き合っていて、同意も異論も反論も非常にスリリング。キレッキレの理論で裏付けながら盛り上がっていく人、主張に同意したうえで「でもね」で反転して、さらに「でもね」とまた反転して尻尾を掴ませない人、素直なリアクションがチャーミングな人、どのインタビューも作家たちのキャラが立ちまくり! 昭和の日本の女性作家に興味のある人には絶対おすすめの1冊です。

 色々面白い話題が出てくるのですが、印象的に残っていることの1つは、この時点で「女流っていう言葉、あれはなんなんでしょうねえ」的に、多くの先生方が「女流文学」の棚に呆れた様子を示していることでした。「男流」なんて言葉は一般に流通してないわけで、本来の文学は男性のもの、そして女が書く以上そこには特定の傾向が求められる。そんな社会の意識が透けるような「女流」表現が今よりもっと「当たり前」にされていた頃ですもんね……。女性は古今東西あらゆる場所(もちろん色々な事情からそれが難しい時代や地域もあるのは前提ですが)で書いてきたのに。あまりにも軽視されてきた歴史が長い……とため息が出る話です……。

 前置きが本文みたいな長さになってしまいました。というわけで、今回はその軽んじられがちな「女性作家」の犯罪劇、マリエル・ヘラー監督の『ある女流作家の罪と罰』(邦題に「女流」が入っているのが少々、苦々しいのですが!)を紹介いたしましょう。

■『ある女流作家の罪と罰』(Can You Ever Forgive Me?)


あらすじ:以前にはベストセラーも出したことがある伝記作家のリー・イスラエルは、実に気難しい中年女。出版業界でうまく立ち回ることもできず、アルコール中毒気味で、校正の仕事もクビになる。猫と暮らすボロアパートの家賃もまともに払えない。切羽つまったある日、偶然見つけた「有名人の手紙」を古書店に売ったところ、これが高値で売れた。ふむ……ということで「ちょっとした工夫」を加えて手紙を偽造して売ってみたところ、値段が本物よりもあがった。こ、これで私は稼げる!そして唯一の友人ジャックとともに、手紙偽造という犯罪で儲ける日々が始まったのだが……実話を元にしたストーリー。

 遠慮がなく社交辞令や世間話が好きな俗物嫌い、自分の好きなものについてこだわって書いていたいし、そこには間違いなく能力を持っている。にもかかわらず、全く思うようにいかない人生を背負った人間が「偽物」としては完璧な「本物」を作ることができる。だからこそ、どんどん深みにハマる。そのジタバタが余すところなく描かれた、素晴らしい女性(女流とは言わないぞ)作家映画です。

 何よりも魅力的なのは、痛々しくも可笑しく、繊細かつ図太いリーのキャラクター描写です。likableな人間に擬態できないし、意地でもしたくない、でも才能にはあふれている、そんな作家が「文体模写」という形なら最強の擬態力を発揮できてしまう。その切なさに、「どうせ私は」の自己嫌悪と「私を誰だと思ってる」の自負ゆえの苛立ちと、精神と金銭の両方が充足した高揚が入り交じる。この描写が巧みで、ふてぶてしい大きな猫のようなメリッサ・マッカーシーが、最高にリーにハマっています。ひょんなことから良き悪友になるジャック(リチャード・E・グラント)との友情描写も素晴らしく、やたら人当たりのキツいレズビアンと適当で享楽的な小悪党のゲイという不思議なコンビには、それぞれに「ろくでもないながらに人とつながろうとしてきた」気配があって、どうにも泣かされてしまいます。やってることは偽造した手紙を売りさばく、れっきとした犯罪なのですが。

 しみじみと良かったのが、リーが元恋人に「私だって頑張っていたのに……」を言うときの実に無防備で悲しげな表情でした。50代で、いつも薄汚い格好で、常に部屋から異臭がする片付けられない猫おばさんであるリーは「女流作家」として求められるものには一切当てはまらないどころか、そもそもが他人とうまくつながれない、努力してもそれが「普通」のレベルに届かない……。

 舞台は1990年代。これが2010年代だったら、彼女のlikableじゃない部分も「個性」になる可能性だってあったのではないか……なんてことも考えてしまいます。というのも、近年「正しくなくて、そんなに若くなくて、何かと生きていくのがしんどい女」を当たり前の存在として描く映画やドラマが増えているのですよね。それはおそらくクリエイター側に女性が(以前よりは)増えてきていることも関係しているでしょう。今作も含め、そうした作品で「自己評価とプライドが高いんだか低いんだか自分でもわからなくなった女」たちに出会えるのは、すごく心強かったりします(似た傾向のある人間なもので……)。

 さて、リーたちの雑な犯罪は果たしてどうなっていくのか。キャラクターを突き放すことも感傷過剰になることもなく、ただただ落ち着いた筆致で映し出された「続くわけがない犯罪の、その先」の景色を、未見の方にはぜひご覧になっていただければと思います!


よろしければ、こちらも 1/『マザリング・サンデー』グレアム・スウィフト


 まずは「男性作家による女性作家もの」でお気に入りの1冊を。1924年、ある邸宅でメイドとして働いていたジェーンが日本でいえば「藪入り」であるマザリング・サンデーの日に何をしていたか、というだけの話なのに、その仕掛けは実にミステリアス。ある単語から別の単語へ、逸れては戻り、戻っては逸れ、ふらふらと彷徨い続けながら、彼女の物語は深さを増していく。その後作家になったジェーンが「決して語らなかったあの日」の詳細な情景と心理のうねりの描写が凄い。ごく短い時間の出来事が視点変更を続けて描かれ続け、何度も何度も同じ地点を行ったり来たりするうち、今度は時間帯がものすごく先の未来でのインタビューや孤児だった彼女の誕生段階まで行ったり来たりし始める時空の操作が鮮やかで、この「散らばった感覚」自体が実に「回想」的。しかもやがてそれが「作家とはどういう存在なのか」という話に結び付いていくのですから、見事というよりありません。


■よろしければ、こちらも2/『ジャック・オブ・スペード』ジョイス・キャロル・オーツ


 対してこちらは「女性作家による男性作家もの」でお気に入りの1冊、捩れた悪夢的ニューロティック・ノワールです。紳士的な有名ミステリ作家と邪悪で残虐でカルト人気を誇る作家、二つの顔を持つ男が奇妙な女から盗作で告発されたことで……という筋は整然としたミステリに向かわせることもできる話なのに、「そうじゃないほう」にどんどんズレていくのがゾワゾワくる面白さ。人気作家のアンドリューが「ジャック・オブ・スペード」という別名義でおぞましい話を書いているうちに人格を乗っ取られたのではなく、そもそもアンドリューは既におぞましい存在だった…?と見えてくる流れはまさにオーツ文学。ホラー・ファンの皆様におかれましては、スティーヴン・キングに関する言及(および「本人登場」)にもニヤリとされることでしょう。

 世の中ではまだ「作家の性別のイメージ」ありきで作品を受け取られがち、という現実は残念な状況ではあります。とはいえそれはそう簡単に消えるものではなく、存在する以上「ないこと」にはしてほしくない。少なくとも今回取り上げた作品はどれもその点が「意識されている」作品だということが、私が強く惹かれた理由なのかもなあ……などと思いながら、それでは今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。


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