みなさんこんばんは。第35回のミステリアス・シネマ・クラブです。このコラムではいわゆる「探偵映画」「犯罪映画」だけではなく「秘密」や「謎」の要素があるすべての映画をミステリ(アスな)映画と位置付けてご案内しております。

私は若い頃から映画や音楽、小説を始めとして色々なアメリカ文化に親しんできたのですが(おそらく翻訳ミステリー大賞シンジケート読者の方の多くがそうですよね)、好きな理由の一つに「自由になること」を強く志向しながら「社会圧から自由になることの難しさ」を厳しく見据えている作品が多いことがあるのかなーと最近思っています。

我々は何かに縛られることを望まず、もがきながら変化し続けて自由になることを希求する。しかし自由を求めるのはかくも厳しいことで、往々にして多くの代償を求められ、何もかも失って、より不自由になることもありうる。だからこそ我々は我々の暗部を見つめる、その暗闇から自由になるために。けれど果たしてそれは可能なのか?と自問自答しながら――そんなことを感じられる作品がミステリーにも結構あるんじゃないかな?と思うのですがいかがでしょう?

私のなかではこうした作風を持つ代表的な存在なのがジョイス・キャロル・オーツ(翻訳されていて日本語で読める作品は限られているのですが……そして私も邦訳が出ているものでも全部読めているわけではないのですが……)。彼女の作品においての「自分でも認知が歪んでいるのがわかりながらどうすることもできない」人物像、あの「どこにも行けないし、どこにも帰れない、自由になりたかったはずなのに」という人間が逃れられない闇になすすべもなく飲み込まれていくさまの描写は唯一無二だと感じます。

さて、今回ご紹介する映画はそんなオーツ先生の作品群と直接はつながってはいないのですが、相通ずる「出られない地獄」感があるな……と思った作品。昨年日本公開されたジュリアス・オナー監督の『ルース・エドガー』です。

■『ルース・エドガー』(LUCE)

■公式サイト http://luce-edgar.com/
■『ルース・エドガー』予告編

あらすじ:ルース・エドガーは完璧な高校生だ。運動部に所属し、皆の人気者で、成績もトップクラスの17歳。アフリカで幼少期を過ごした彼は、かつて少年兵だった。過酷なトラウマを抱えて自由の国アメリカにたどり着き、リベラルな白人の養父母に育てられた彼は、今では順風満帆の日々を過ごしているーー少なくとも周囲には、そのように見えた。しかし、女性教師のウィルソンがルースの提出したレポート内容に抱いた疑念を伝えたことから、養父母夫妻はルースのことがわからなくなっていく……

まず心理ドラマとして間違いなく一級品といえる作品だと思います。ルースをめぐる様々な人物のお互いの偏見や違和感、感情を乱反射するように描いていく筆致が非常に見事で、私はあなたが/あなたは私が/私は私が/もうわからない、という状況が張り詰めた空気感の中で描出されていきます。

原作は戯曲なのですが、台詞や展開の面白さはもちろんのこと、舞台劇の中継的に見せるのではなく「映画」というフォーマットに乗せるうえで工夫されている点にも唸りました。音圧の強いデジタルなスコアで募っていく不気味な気配。「どう捉えていいのかわからない」表情の変化で人物の複雑さを伝える俳優の顔のクローズアップ。あるいは「はっきり映されていないこと」で感じられる恐怖。

2019年においての「アメリカという概念について」の最上級のコメンタリーになっている作品でもあります。呪わしく闇にはためく我らが星条旗。マイノリティは聖者か怪物かの「どちらか」にラベリングされてしまう。YES,WE CANというときのWEに含まれるために彼ら/彼女らに背負わされる地獄を、マジョリティ(構造的な不利を被らない側)は気づくことすらなく、自らの「代償」にしか意識は向いていない。
わかりやすいレイシストではない人間も、わかりやすいセクシストではない人間も、マイノリティとしてアイデンティティにもがく人物さえも、アメリカンを内面化して適応することから逃れられない。それぞれの人物の出口がどんどん閉じられていく様子がとにかく凄まじいのです……。

最初に「乱反射」という言葉を使ったのですが、この作品で特に私が魅力的だと思ったのはモデル・マイノリティとして完璧であることを求められ、その役割を忠実に果たしてきたルースをある種の「鏡」として描いている点でした。適応を重ねてきたがゆえにルースの完璧につるつるすべすべな表面は誰にとっても鏡のような存在になっていて、養父母も教師も友人も彼の姿を介して「自分」を見ているんですよね。

さらに面白いのはこの映画はしばしばルース自身の視線でも世界を捉えているため、彼の息苦しさが鏡として生きる絶望として伝わってくるところ。君は何者にもなれる、というけれど、それは「映せるもの」に限られていて、本当になりたいものは実は問われていない。一つでも適応を間違えたらヒビが入ったも同じ、廃棄されても仕方ない。だからこそ完璧な表面を保つ必要がある――これ以上の過酷な檻はないでしょう……。

また、非常に巧みだと感じたのが「あまりにも自然に存在するミソジニー」という現実の絡め方です。白人/非白人という軸だけではなく、男性/非男性という構造を盛り込んだのはクレバーなところ。立派なことをしたとみなされている男親がいかに女親に子育ての責任を投げようとするか。あるいは男たちがいかに気軽にナチュラルに”bitch“という言葉を使うか。人種をめぐる状況の悪夢感に、女性蔑視をコミュニケーション手段にする男性社会の悪夢も絡まっていく展開は鮮やかというよりありません。

ルースとは、果たして何者なのか。彼は本当に危険なのか。あるいは、彼を通じて自分を見ている者たちが危険なのか。最後の最後まで厳しく描ききった今作は、巧妙な心理劇にしてある種のノワールになっていると思います。機会がありましたら、ぜひご覧ください!


■よろしければ、こちらも/『ブラックウォーター』ジョイス・キャロル・オーツ


というわけで「巧妙な心理劇であり、ある種のノワール」タイプの作品で右に出るものなきジョイス・キャロル・オーツ先生の諸作のなかでも特に好きな『ブラックウォーター』の話をさせてください!(古本価格が高騰しているのが難なのですが…)これは本当に色んな人に今こそ読まれてほしい大傑作。チャパキディック事件を元にした作品で(ただし時代設定は刊行時にあわせてあり、関係者の名前もすべて変更されている)、1人の若い娘が沼に沈んで死んでいくまでの数分が永遠に引き伸ばされていく、地獄のような「彼女の人生の物語」です。読んでいるこちらも呼吸困難になりそうな迫力のストーリーテリングがとにかく圧倒的。

彼女は今、黒い水に肺を満たされ死んでいこうとしている。彼女の名はケリー。ずっと年上の有望な政治家の男と関係を持ち、「特別な私」になりかけているところだった。彼女の胸に去来する、(きっとこうだった)過去、(ありえたかもしれない)未来、そして現在、沼地に沈んだ事故車の中で朦朧としている現実。入り乱れる感情、入り乱れる時空……何度も何度も反復される「決定的な一瞬(事故の瞬間)から死ぬまで」の描写の中、彼女の肺を満たしていく黒い水は物理的な状況であると同時に、祝福されて生まれ愛されて育った人の娘が緩やかに沈められていく社会の現実そのものでもあるわけです……

『短編画廊 絵から生まれた17の物語』に収録された短編『午前11時に会いましょう』(これも最高!)でも使われていた、ある瞬間が角度を変えて何度も映し出されるたびに印象を変えていく映像的な手法は完璧というよりなく、「さまざまなケリーたちへ」の巻頭辞に込められた凄みにも痺れるよりありません。これは名もなき娘たち――求めたがゆえに奪われ、裏切られ、それは自己責任だと切り捨てられ、身体的にあるいは社会的に殺されていった若い娘たちに捧げられた物語なのです。これがノワールでなくて何がノワールでありましょう。

と改めて書いてみて、過激な暴力描写がなくとも「自由を求めるほどにすべてが檻になってしまう」現実を厳しく見つめるアメリカの心理劇のノワール性が、私は心底好きなんだなあと感じながら、それでは今宵はこのあたりで。また次回のミステリアス・シネマ・クラブでお会いしましょう。

今野芙実(こんの ふみ)
 webマガジン「花園Magazine」編集スタッフ&ライター。2017年4月から東京を離れ、鹿児島で観たり聴いたり読んだり書いたりしています。映画と小説と日々の暮らしについてつぶやくのが好きなインターネットの人。
 twitterアカウントは vertigo(@vertigonote)です。



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