一世を風靡したラドクリフ夫人の作品も、現在ではそのテンポが悠長に過ぎるし、二百年前の読者をとりこにしたサスペンスも、残念ながら少々色あせてしまっている。ゴシック小説で、現代のミステリ・ファンにお勧めしたいのは次の二作。
(1)ウィリアム・ゴドウィン『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)(岡照雄訳、国書刊行会・品切)
陰鬱な性格ながら慈悲深い地主フォークランドのもとで働くケイレブが、好奇心から主人の秘密を探偵し、彼が過去に犯した恐ろしい罪を突きとめる。すると土地の有力者で絶対的な権力をもつフォークランドは、逆にケイレブを脅迫して執拗な迫害を加えていく。追う者(探偵)と追われる者(犯罪者)が逆転する不条理。法の正義はどこにもない。単なる好奇心から探偵行為を働いた主人公に、まるで懲罰のように下される過酷な運命は、漱石『彼岸過迄』やミルワード・ケネディ『救いの死』の探偵批判を予告している。
(2)ジェイムズ・ホッグ『悪の誘惑』(1824)(高橋和久訳、国書刊行会・品切)
十七世紀のスコットランド。両親の不仲によって別々に育てられ、正反対の性格に成長した兄弟。運命的な出会いはやがて悲劇に発展する。ひとつの事件が編者による物語と殺人者の手記という二重のテクストによって語られるが、二つの物語は多くの矛盾をはらみ、幾重もの語りのなかで何が真実かは曖昧になっていく。語り手を悪へと誘う怪人物は悪魔なのか、それとも歪んだ心が生みだした分身なのか、あるいはそれ自体がひとつの虚構にすぎないのか。目も眩むような語りの迷宮は、いまなおその衝撃を失っていない。メタミステリにして幻想ミステリの傑作。
19世紀半ば以降、このゴシック小説の流れを受け継いだのが、いわゆる「ヴィクトリアン・スリラー」と呼ばれる小説群。現在のペーパーバックに相当する廉価本や雑誌も登場して、大衆的な小説市場が形成されていくなかで抜群の人気を誇ったストーリーテラーが次の二人の巨人。
(3)ウィルキー・コリンズ『白衣の女』(1860)(中島賢二訳、岩波文庫)
ある夏の夜、若き絵画教師ハートライトは、郊外の母親の家からロンドンへ歩いて帰る途中、まっ白な服に身を包んだ不思議な女に出会う。不安げな様子の彼女は何者かに追われているようだった……という印象的な冒頭のシーンからつかみはバッチリ。あとは物語の続きを知りたくて、ひたすら頁をめくりつづけるしかない。19世紀英国のおそるべきページターナー。フォスコ伯爵という魅力的な悪役も登場する。
(4)『ディケンズ短篇集』(小池滋・石塚裕子訳、岩波文庫)
コリンズの盟友チャールズ・ディケンズの長篇はほとんどが犯罪がらみといっていいし、『エドウィン・ドルードの謎』という未完の探偵小説もあるのだが、ここでは短篇集を。「奇妙な依頼人の話」「狂人の手記」「ある自虐者の物語」など、異様なオブセッションや異常心理を扱った短篇は「もうひとりのポー」といってもいいくらいで、ヴィクトリア時代の文豪の意外な現代性に驚かされる。エラリイ・クイーンが発掘した探偵譚「追いつめられて」や、神経の異常が生んだ妄想とも解釈可能な名作怪談「信号手」も収められている。
そのころ英仏海峡の向こうのフランスでは、新聞小説という新しいメディアで、もうひとりの偉大なストーリーテラーが誕生していた。
(5)エミール・ガボリオ『ルルージュ事件』(1866)(太田浩一訳、国書刊行会)
「ルコックなんて、へまばかりで見ちゃいられない」というホームズの台詞に植え付けられた偏見のせいもあって(実際、『ルコック探偵』は読み通すのに苦労した覚えがある)、歴史的意義はともかく今読むとどうだろう、と思っていたガボリオだが、昨年、初めて完訳された『ルルージュ事件』を読んで、そのスピーディな展開とリーダビリティにびっくりした。ルコックをくさしたホームズの作者だって、実際にはガボリオの強い影響をうけているわけで(本作でも「獲物を追い求める猟犬のようなひたむきさ」で殺人現場の調査にとりかかるタバレの姿は、ホームズにぴたり重なる)、「世界最初の長篇探偵小説」という称号も伊達ではない。
以上、ホームズ登場以前の5冊をあげてみた。百四十年から二百年以上前の作品だが、どれもびっくりするほど面白く、新しい。十九世紀初めの読書系女子キャサリン嬢と同じように、こういう面白い小説を「一生読んでいたい」と思うのだ。
藤原義也