『エルサレムから来た悪魔』アリアナ・フランクリン(創元推理文庫 上下巻Mフ20-1、20-2)

 振り返ってみれば、この仕事についたのは16年前。いまでこそ、花ばかりでなくハーブや果樹や野菜いっぱいのガーデニングと、ひなたぼっこと、猫のぬくもりを楽しむゆとりがあるものの、デビュー当時、いや、その前後も、1日24時間ひっきりなしに翻訳のことばかり考えていて、アドレナリンを大放出していた。

 依頼の有無にかかわらずリーディングは100冊以上していたが、そのなかでダントツに興味を惹かれたのが、のちに創元推理文庫から刊行された『見知らぬ顔』(アン・ペリー著)である。当時の編集者M浦さんに試訳を再提出したさい、「直せる方だと思うので翻訳をお願いすることにしました」と言われたときは、不安ながらも嬉しかった。まだ駆け出しですらなかったわたしに、よくぞ任せてくれたものだと思う。

 これが、わたしと時代ミステリとの出会いである。その後、体調を崩していたこともあり、すっかりご無沙汰と相成ったのだが、このほど再び時代ミステリを訳すチャンスに恵まれた。編集者M澤さんの「分厚い本を安心して任せられる方に」という言葉に、今回わたしは自信をもってうなずいた。上下本なら数多く手がけてきたし、先ごろも、シリーズを重ねるごとに長くなり、警察小説・家族小説として楽しめる『正義の裁き』(フェイ・ケラーマン著)を訳していたからだ。

 前置きが長くなったが、『エルサレムから来た悪魔』の舞台は12世紀のイングランド、時の王はヘンリー二世だ。ケンブリッジで連続子ども殺人事件が起こり、ユダヤ人のしわざだとの噂が流れて町人たちが暴徒と化したため、ヘンリー二世は医学の最先端にあったシチリア王国から検死医を招聘した。

 ピカイチの検死医としてやってきたのが、主人公のアデリアだ。そのころのイングランドは辺境の地であり、医術に携わる女は魔女だという偏見があったため、アデリアの検死作業ははなから難航する。遺体の特徴を手がかりとして犯人を追いつめていく捜査法はよく見られるが、犯人を捕まえてめでたしめでたしで終わるのではなく、その後に事態が思わぬ展開を見せるのが、本書の売りのひとひねりである。

12世紀が舞台ということで敬遠する読者もいるかもしれないが、昔も今も人間そのものはさして変わらない。いったん入りこんでしまえば、流れにのって運ばれていくだけでいい。それどころか、当時の風物がオマケについてくるのだから、お得なフィクションだ。ワープの楽しさを味わっていただければと思う。

 しかも、本書には魅力的な脇役がわんさと登場する。命にかけてもアデリアを守る宦官のマンスール、アデリアといっしょに派遣された冷静沈着な調査官シモン、アデリアをわが子のようにかわいがる修道院長、アデリアの世話をする下町気質のギルサばあちゃん、腕白だけどはにかみ屋のユルフ坊主、鼻がひん曲がりそうなほど臭い大型のワンちゃん。おっと、近づきがたいのになぜか庶民的なヘンリー二世を忘れちゃいけない。

 そして、主人公のアデリアだ。現代の比ではない女性差別に苦しみ、憤りながら、医学の世界に没頭するその姿勢が潔い。勉学一筋だった女の子が初めて男性に惹かれて、恋に戸惑いつつベッドを共にする一幕には、遠い昔(いや、つい最近かもしれないけど)を思い出す読者もいるのでは? にぎやかな脇役たちに囲まれて彼女がどう成長していくのか、楽しみである。

 吉澤康子