訳書から「イチ押し」を自薦せよとの依頼ですが、基本的に、自分の訳した作品にはどれにも愛着があります。個人的な好みや作品の出来栄えやジャンルを超えて、本になり書店に並んだときには娘を嫁に出したような心地とでも言いますか。しかし、「訳者あとがき」などを読み返してみると、そこはやはり人間。その時々の思い入れや紹介の仕方に微妙な温度差があるようです。先日、結婚披露宴のスピーチを頼まれたのですが、そのとき気がつきました。この手のスピーチと「あとがき」には通底するものがあると。つまり、対象に「押し」たいところがたっぷりあればスピーチはとても楽になる。楽しくなることさえも。対象の気に入り具合が話の内容に如実に反映されるのです。

「あとがき」に力(りき)が入ったという点では、デイヴィッド・フェレル『殺人豪速球』マイク・ハリソン『揺さぶり』が双璧かもしれません。前者は、米大リーグ、ボストン・レッドソックスに時速170キロ超の新人投手が現われ、球団にかかっているとされる「呪い」に挑む野球ミステリ。後者はカナダ・カルガリーを舞台に男気たっぷりの私立探偵が悪党たちの巣窟に乗りこむハードボイルド。

 三度の飯よりベースボールが好きで20年来のレッドソックスファンである私は『殺人豪速球』のとき、かなり舞い上がっていたようで、あろうことか、「あとがき」だけでなく「まえがき」まで書いてしまいました(まえがきと謳うのはやめたけど)。披露宴でスピーチするだけでなく、最初に一曲歌ってしまったようなものでしょうか。『揺さぶり』に至っては、翻訳顛末記の形で妻まで登場させて暴走してしまいました。

 両書とも「次」の訳出機会をいただけそうにない点で「一点限り」という思い入れもあります。前者は作者が次を書かず、後者は純粋に翻訳出版社の都合。どちらも、こういう機会に触れでもしないと、思い出していただくチャンスを得られそうにありません。しかし、依頼されたのは「イチ押し」。涙を飲んで、ここは『殺人豪速球』に。

 2003年刊行と、すこし時間が経った感のある『殺人豪速球』ですが、今年、2010年の大リーグに同書の主人公を髣髴させる怪物投手が出現しました。6月8日、ナショナル・リーグ東地区ワシントン・ナショナルズの対パイレーツ戦。本拠地ナショナルズ・パークのマウンドに上がった新人投手スティーヴン・ストラスバーグの球は、初登板にして最速時速103マイル(166キロ)を計測。7回を投げ、7人連続を含む14三振を奪って全米の度肝を抜いたのです。以来、世界のベースボールファンの目はこのストラスバーグに釘付けになっています。初めて彼を見たとき、私は『殺人豪速球』の主人公を思い出さずにいられませんでした。このタイミングで執筆を依頼されたのも、なにかの縁かもしれません。

 前振りが長くなりましたが、作品について。

 レッドソックスのスカウトがテキサス州の片田舎でものすごい速球を投げる17歳の少年、ロン・ケインを発見したところから物語は始まります。球団はひそかに彼をドミニカ共和国へ送りこみ、わざわざ現地に教育リーグまで作って、じっくり成長をうながします。そして4年後、ケインは170キロ超の速球をひっさげて華々しいデビューを飾り、ボストンファンを熱狂させました。ついにあの「呪い」が解けるときが来るのか——。ベーブ・ルースをニューヨーク・ヤンキースに放出して以来80年以上ワールドシリーズに勝てず、出場するたび悲劇的な敗北を繰り返すようになったレッドソックスに、いつしか世間はバンビーノ(ルースの愛称)の呪いがかかっていると言うようになりました。一種の都市伝説ですね(現実には、小説が出版された翌2004年に「呪い」は解けるのですが)。

 気性の激しいケインと監督やチームメイトの対立を乗り越えて、レッドソックスは着々と勝利を積み上げ、頂点に向かって驀進していきますが、ケインがデビューしたころから球団の身辺に奇怪な出来事が起こりはじめました。大物OBをはじめ球団関係者が次々と殺害されていくのです。それも首を切断されるという猟奇的な手口で。チームを騒動に巻きこまないようにと、フロントはあれこれ手を打ちますが、それが逆に球団をとんでもない窮地に陥れることに——。

 ミステリ仕立てではありますが、じつは皮肉たっぷりのブラックコメディ。原題SCREWBALLは変化球の一種ですが、1930〜40年代にアメリカ映画界で一世を風靡したスクリューボール・コメディを暗示してもいます。変人たちが周囲を振りまわし、自らも振りまわされていくタイプのどたばた喜劇です。翻訳出版時の帯には“痛快野球ミステリ”と謳っていますが、むしろ、その皮肉の徹底したブラックぶりを味わっていただきたい作品ですね。

 作者のデイヴィッド・フェレルはロサンジェルス・タイムズの報道チームの一員としてピュリッツァー賞を二度受賞した、筋金入りの新聞記者。ノンフィクションの著書は何冊かありますが、小説はこの一作のみ。プロスポーツの表と裏を知り尽くした書き手ならではのドロドロの内幕話もお楽しみに。

 ちなみに、作中ワールドシリーズの相手LAドジャースのマウンドには(あの)石井一久が上がっているんですよ。きっと知らないだろうなあ、石井は。小説のなかでベースボール最高の舞台に上がっているなんて(笑)。