イチ押しミステリ、といわれて、ちょっと考え込んでしまいました。売れ行きやら評価やらとは関係なしに、自分で苦労して訳した小説には、みんなそれなりに愛着があるので。話題にもならず、どこかの古本屋の片隅でしか手に入らなくなってしまったとしても、可愛いのには変わりありませんしね。

 でも、その中から無理に探すとしたら、これかなと。この場を借りてでも紹介しておかないと、確実に埋もれてしまいそうな気もするし。

『野良犬の運河』(スタヴ・シェレズ)

 舞台は運河の街、アムステルダム。オランダの首都で、売春も麻薬も公認という、頽廃の香り漂う街。第二次大戦中は、ナチスドイツの占領下にありました。『アンネの日記』が有名ですが、当時の面影を残すユダヤ歴史博物館という施設もあります。

 ミステリの中心になるのは、若い娘たちの猟奇的な連続殺人と、ホームレスの老人ジェイクの死。ただし物語の本当の根幹は、ジェイクと孤独な三十男ジョンの心の交流です。この二人をつなぐのはユダヤ人という出自。そしてジェイクの体を覆う無残な自傷行為の痕。さらに物語の新たな軸となる、ジョンとアムステルダムの大学生スーズの恋。しかしスーズにはMの性癖と、連続殺人事件に関わる秘密があった。やがて事件の謎は、かつてナチスの強制収容所で行われたユダヤ人の大量虐殺へとつながっていく。

 お断りしておきますと、自傷や殺人の描写はかなり陰惨ですし、収容所がらみの記述などはショッキングかもしれません。でも、実のところ、これは青春小説なのです。少なくとも私は、そう思いながら訳しておりました。

 生きる希望を見出せない、ユダヤ人の主人公ジョン。同じユダヤ人のジェイクとの関わりから、祖先たちが遭遇した過酷な歴史をつきつけられ、自分の中でどう折り合いをつければいいのかと思い惑う。そのとき、小説の作家が希望を託したのは、スーズという矛盾に満ちた女性であり、シャルロッテ・サロモンという女性画家の存在でした。若い主人公が生きる意味を見出そうとする小説が、ミステリの形をとるというのは、欧米ではそう珍しくはないパターンかもしれませんが。

 まあ、おそらく、誰が読んでも楽しめるウェルメイドな話ではないでしょう。荒さも感じるし、若書きと言われても仕方ない部分もある。ただそれでも、若い才能が全身全霊を込めて自分の思いの丈をぶちこんだような作品には、それだけで尊いものを感じてしまうのです。

 シェレズはアムステルダムでシャルロッテという画家に接した時、この小説を構想したそうです。私も展覧会の図録を取り寄せてみましたが、悲劇的な死を遂げる女性が、収容先の過酷な環境で描いたとはとても思えない絵でした。小説のほうも、ミステリ的には決着がつきますが、決してハッピーエンドではない。それでも読んだあとには、どこかしら前向きな気持ちになれる。これもいい小説の条件の一つなのではないかなと。

 あと、付け加えるとしたら、元音楽評論家の著者だけに、ちょっと懐かしめの音楽好きなら、楽しめるところはいっぱいあります。スーズというのはもちろん、ボブ・ディランの恋人スーズ・ロトロからきてますし。しかも謎解きの大きなカギになるのが、グレイトフル・デッドのライブ録音だったりして。

 そんなわけで、うまく「押せ」たか甚だ心もとないですが、興味を持ってくださった方には、どうかご一読を賜れれば。