(承前)

 そもそも彼らはなぜ吸血鬼と戦う羽目になるのか——吸血鬼の存在に気付いたのなら、なぜ警察なり軍隊なりに通報して後を任せようとしないのか(そのことについての極めて説得力のない理由は二八三ページに出てくる)。それは彼らが「おたく」だからだ。「吸血鬼狩り」という先鋭的かつ魅力的なテーマを、官憲や国家権力などといった無粋な連中に扱わせるなどもってのほか、という理由で彼らは闘う羽目になるのだ。かっこよくいえば、市民を脅かす吸血鬼という暴力に対抗するとき、国家という別種の暴力装置を導入するような胡散臭い戦略を用いるべきではなく、市民の自立的抵抗がまず最初にあるべきだ、ということだろうか。でも私はこういう言い方の方が好きだ。「おたくの矜持」。「おたく」が世界を救うのである。

 率直な評価では、前半部はごちゃごちゃしすぎ。視点が目まぐるしく動きすぎだし、太字で強調された部分の心理描写も誰が誰を恐怖させるためのものなのかが今一つ伝わらず、空振りぎみである。それは登場人物が多過ぎるからなのだが、それもこれも物語後半に至り、彼らが吸血鬼退治という目的の下に集合するさまを描くため、と理解すれば納得もいく。

 そうだ。ミステリーの作法に乗っ取って読者に餌をまいておこう。なんでこの小説には吸血鬼フィクションマニアが登場しているのか。なんで主人公たちのうちの何人かはあるゲームに興じているのか。なによりも、そもそもなんで吸血鬼は地下鉄に現れたのか。そうった小説の余剰としか見えない部分が、三〇七ページに至ってすべて結びつき、一気に意味をもってくるはずだ。そして結末近くの四九九ページにはもう一度大きなサプライズが待っている。なるほどそう来るか!

 かつて映画監督の中野貴雄は、映画『オースティン・パワーズ』のクライマックス場面——オースティン・パワーズがジョニー・リヴァーズの名曲「秘密諜報部員」の調べに乗って敵基地を破壊する——を見て、「世界のためにバカが一人で戦ってる」ことに目頭を熱くしたという。

 普段はどんなに蔑まれていても、たとえ誰にも顧みられなくても、魂のある奴はやるときはやるものなのである。そういえば本書の主人公たちは、言っちゃ悪いがそんなに裕福な階層にも見えないし、あまり学歴で勝負するタイプの人間にも見えない。よくよく見ているとしょっちゅうビールばかり飲んでいるし(しかも注文の仕方が、いきなり『バドワイザーのピッチャーふたつ』だ)、肝腎なところで能天気すぎたりする。敵の潜んでいるかもしれない公園に、酔っ払ってのこのこ近づいていくなんて、どんな戦術の教科書にだってありはしないだろう(しかも『トワイライト・ゾーン』のテーマを口ずさみながら)。でもそんな連中だって、やるときはやるのである。それこそが本書のテーマである。だから「友情・努力・団結」なのだ。そこに「勝利」と付け足してもいいぞ。

 まとめて言えば、これは非常にオモシロク、キモチヨク、ワクワクとして爽快な冒険物語なのである——人はバタバタ死ぬけど。私はまったく詳しくないが、昨今のゲームの感覚に近い小説でもあるのだろう。そういう読まれ方をしてもまったく大丈夫のはず。むしろ「バイオハザード」などと比較して読んでもらえれば、作者はうはうは喜ぶのではないかという気さえするのである。俺は本は「少年ジ○ンプ」しか読まないよ、っていう人にも読んでほしいな。

 杉江松恋