地下といえば、都市伝説の宝庫でもある。いちばん有名なのが白いワニの都市伝説だろう。不要になったペットのワニを誰かが下水に流したため、それが地下で白い巨大ワニとなって繁殖するという薄気味の悪いストーリーだ。ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター』を読まれた方ならご記憶かと思うが、大都市の地下というものはきっちりと隙間無く埋められているのではなく、様々な用途のパイプなどを通すために、結構スカスカなものなのである。そこに入り込んで生活をしているホームレスがいるという都市伝説もあるが、それは一部実話らしい。実際にその人々と会ってインタビューしたというふれこみの、ジェニファー・トス『モグラびと』(集英社)なるノンフィクションもあるくらいだ。
都市生活者の心の中には、目に見える生活圏の隣に、異世界が広がっているのではないかという怖れの気持ちがあるらしい。鄙であれば身近なはずの闇の部分が、都市では煌々と照らし出されるために身辺から疎外されている。それゆえに都市伝説を創り出し、不可視な不安に可視的な形を与えようという心性が働くのだろう。ガストン・ルルー『オペラ座の怪人』(創元推理文庫ほか)などはまさにそこに立脚した小説であるし、わが国にも諸星大二郎『不安な立像』(集英社ほか)なる傑作がある。あれなどはまさに地下鉄を舞台にしたホラーだったわけで、お前はそういう話じゃないかと思ってこの本を読んだんだろう、という思ったあなたは実に鋭い。その通りである。本書前半を読み進めながら私が想起していたのは、そういった都市生活者の心の闇を吸血鬼が支配し、乗っ取っていく、極めて心理的な物語だった。しかしそれも違ったのである。
そろそろ読者の怒りの声が聞こえてきそうな気がするが、ではいったい本書『闇の果ての光』とはいかなる小説なのだろうか? もったいをつけるのも面倒くさくなってきたので書いてしまおう。心の準備はいいですか?
実は本書、「友情・努力・団結」の物語なのである。「友情・努力。団結」? そう、「友情・努力・団結」。あえて「少年ジ○ンプ」のようなフレーズを出してきたのには、それなりの理由がある。つまりこれは、吸血鬼という日常を脅かす絶対的な悪の出現に気付いた主人公たちが、自分たちの力で敵を打ち負かそうと手を組み、勝ち目のない戦いへと挑んでいく話なのだ。その意味では、大ベストセラー、J・R・R・トールキン『指輪物語』(評論社文庫ほか)と本書は同一の線で結ばれる。目的を同じくする者たちが結びつき、旅をするというのは冒険ロマンの基本形である。本書におけるその目的は、ズバリ吸血鬼退治だ。
『指輪物語』型の冒険小説では、旅をする仲間たちそれぞれの人物造型は、極めて類型的な描かれ方をすることが多い。その典型が『オズの魔法使い』だろう。『オズの魔法使い』は、「かかし」「木こり」「ライオン」が、それぞれ自らに備わっていない属性「知性」「心」「勇気」を求めて旅をする話だ。我が身に欠けたもの、という負性が逆に人物造型を際立てるやり方である。本書においても、コナン・ザ・バーバリアンのような獰猛な復讐鬼あり、そいつに殴られるのが嫌さに逃げ出してしまう臆病者あり、吸血鬼の魅力にとらえられてしまう淫乱症あり、と個々の描き分けはきちんとなされているのだが、不思議なことにある共通点が彼らを結び付けている。彼らは全員「おたく」なのだ。