また、物語のなかでは、兄弟の成長とあわせて、ロシアとアメリカを中心にして、今世紀に起こったさまざまな歴史的大事件が描かれている。
まず、冒頭からスターリンのユダヤ人粛清事件が、物語の重要な要素として、綿密に描写されている。バー=ゾウハーの作品は、いずれも導入部からすでに謎とサスペンスに満ちた展開ではじまり、たちまち物語世界に引き込まれてしまったものだが、本書もまた、兄弟の母親、トーニャの受ける残酷な運命の行方を追わずにはいられなくなるのだ。
さらに、ポーランド人捕虜大虐殺事件、ニュルンベルク裁判、キューバ危機、そしてソ連のアフガニスタン介入、ゴルバチョフ政権のペレストロイカから、ソ連崩壊にいたるまでの国際的な事件が登場する。
こうした出来事も、登場人物たちの視点に立って語られるせいか、無味乾燥な記述による歴史の教科書を読むより、はるかに分かりやすい。そしてそこには、これまで作者の作品を読んでこられた方ならばお分かりのように、ブルガリヤで生まれ、ナチの迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人、バー=ゾウハーならではの史観が、随所にあらわれているのである。
そのほか、アメリカに住むアレクサンドルが思春期をむかえ、やがてロマンチックな恋におちる顛末やそれを心配しながら見守る伯母の心情などまでもが丹念に描かれており、ある種の青春小説風なおもむきが強く感じられる。こうした味わいも、大河小説のように主人公の成長が語られていく、本作ならではの特色かもしれない。
そして、前半におけるふたりの少年期から青年に至るまでの展開を経て、物語は佳境へと向かっていく。やがて、それぞれの国の諜報部に加わり、燃えたぎるような復讐心を胸に、虚々実々の闘いを繰りひろげていくことになるのだ。
〈復讐〉こそは、バー=ゾウハー作品で、デビュー作『過去からの狙撃者』以来、ほぼ一貫して扱われているテーマである。
愛する者を理不尽に殺された恨みを決して忘れないどころか、おのれの命をかけてでも追い続け、かならずやその償いを求める。ナチス・ドイツによる歴史上未曾有の大暴虐の犠牲となったユダヤ民族の血をひく作家ならではの主題といえる。
本作では、主人公たちのきわめて個人的な愛憎が絡んでいるものの、やはり復讐にとり憑かれた男たちをめぐるドラマへと展開していくのだ。それが、つねに相手の裏をかきながら闘うスパイ・スリラーの醍醐味と重なりあい、より劇的なクライマックスへとつながっていくのである。
さらに、諜報戦ものとしての面白さは、とりわけジミトリーがKGBに所属してから、秘密工作員としての訓練を受け、任務をこなしていくあたりにみられる。KGBの歴史と影の部分が克明に描かれているのだ。
なにより、もうひとつ決して忘れてならないバー=ゾウハーの最大の魅力は、そのラストシーンの素晴らしさである。『パンドラ抹殺文書』で、光と影を劇的に反転させた、まったく見事としか言いようのない結末。もしくは『復讐のダブル・クロス』で、鮮やかな映像として目前に浮かんでくるほどの印象的な最後の場面。当然のことながら、本書でも驚愕と興奮が間違いなく味わえる。復讐に燃え反目しあう兄弟たちの憎悪とこれまでの人生とは、いったい何だったのか。まさに胸の奥をえぐられるような衝撃に襲われるラストが用意されているのだ。これこそが、バー=ゾウハーの真骨頂なのである。
このように、半世紀にわたる冷戦時代の変遷を背景に、事実と虚構を巧みに織りまぜつつ、大河ドラマ仕立ての骨格とひねりの効いたプロットによって描かれた本書は、作者の持ち味がいたるところに含まれており、スパイ・スリラーの枠をこえた、極上のエンタテインメント作品となっているのだ。
いわば作者の集大成的な作品である本書が出たのち、残念ながら新作は発表されていない。年齢的にみて、まだまだ引退してしまう歳ではないだけに、ぜひとも新たなスパイ・スリラーや国際謀略サスペンスを書いて欲しいものだ。東西の冷戦が終わったとしても、たとえばイスラエルをめぐる中東問題をはじめ、題材にはこと欠かないはずだ。マイケル・バー=ゾウハーならではの、現代の復讐譚を読みたいのである。
吉野仁
(注:本文は1998年2月に書かれたものです)