『この町の誰かが』

ヒラリー・ウォー/法村里絵訳

創元推理文庫

 イチ押し……つまり、たった1冊。う〜ん、これはむずかしい! 翻訳の仕事を始めてからこれまで、うれしいことに多くのすばらしい作品に出逢ってきた。その中でも特に印象的だったミステリーといえば、覆面作家ジョン・ケースの『創世の暗号』とヒラリー・ウォーの一連の作品だろう。『創世の暗号』は、とにかくおもしろかった。そこに描かれている何にふれても種明かしになりそうで、あとがきを書くのに苦労した。残念ながら、この作品は‘現在、お取り扱いできません’となっている。でも、絶対にオススメ。機会があったら、ぜひご一読を……。

 ということで、やはり‘イチ押し’には、ヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』を挙げさせていただくことにしよう。この作品を訳したのは10年以上前。それでも、初めて原書を読んだときの衝撃は今もはっきりとおぼえている。とにかく話にぐんぐん引きこまれ、仕事だなんてことはすっかり忘れ、犯人に気づいたときにはほんとうに鳥肌がたった。

 コネティカット州の小さな町で16歳の少女が殺害されたことから始まるこのミステリーは、全編、町の住人の証言や議事録の形でつづられている。まずは被害者の母親、父親、弟が、事件当日の少女の様子を語っている。それにつづくのは、隣人に司祭に友達にリポーターに警官たち……。そんなふうに証言が集まっていくうちに、平和に思えていた町のほんとうの姿が浮き彫りになり、犯人の姿が見えてくる。複雑なことは何もない。とにかく怖いほどリアルに人間が描かれている。ちなみに、これは1990年、ウォー70歳のときの作品だ。ウォーは、このあとノンフィクションを1作書いて、2008年に88歳で他界した。『この町の誰かが』は、ヒラリー・ウォーの最後のミステリーだ。

 訳を担当させていただいたウォーの作品は、他にも『冷えきった週末』『待ちうける影』『ながい眠り』と3作ある。どれも傑作だ。『冷えきった週末』と『ながい眠り』はフェローズ署長を主人公とした警察もののシリーズ。『ながい眠り』は以前に関口英男氏が訳されたものがポケミスから出ているのだが、2005年に創元推理文庫刊ということで新たに訳させていただいた。これはおもしろい経験だった。ふつう、同じ作品を他の訳者が訳したらどうなるかなんてわからない。フェローズ署長ものは、他に『事件当夜は雨』(創元推理文庫)、『生まれながらの犠牲者』(ポケミス)、『死の周辺』(ポケミス)、『失踪者』(ポケミス)が刊行されている。この4作が訳されたのは、1960年代。すべて訳者がちがっていて、それぞれの中にほんの少しずつ味わいのちがうフェローズがいる。当時の翻訳事情に思いをめぐらせながら、拝読させていただいた。

 ポケミスのほうは手に入れるのがむずかしいかもしれないが、それ以外のここに挙げたウォーの作品は、今も創元推理文庫の棚にならんでいる。どれもオススメ。お手に取っていただければ、幸いです。

 あれっ……5冊も押しちゃった!

 法村里絵