<会心の訳文>という、たいへん書きづらいコーナーに、しょぼいエッセイをおさめてから一年近くたった某日。

 師匠からメールが届きました。

「お題は自由。なんでもいいからエッセイを四回書いてね。全部猫の話でもいいよ。じゃ、よろしく。ちゅっ!」

 ちゅっ!じゃねえよ!!!

 しかも毎回、飼い猫の話オンリーって、どんなコーナー……

 まあ、いいや。とりあえず、思いついたことを、うだうだと書いていきますので、一ヶ月間、よろしくお願いいたします。

 なぜこんなバカに書かせた!という苦情は田口俊樹師匠にどうぞ。

 しかし、お題は自由って難しいですね。まだ<会心の訳文>の方が、でっちあげやすかったのに。

 基本的に、わたしは訳しながら”会心の訳文”と自画自賛した部分は、ゲラを見直す時に全部ボツにしています。

 なぜなら、わたしの場合は、変に原作のキャラクターに同調しすぎて、ある意味、興奮状態になっている時に、勢いで「どんなもんだい!」と、やりすぎたり、「自分はこんな上手い訳語を思いつくんだぞ。どんなもんだい!」と、いきがったりした部分が “会心の訳文”だからです。

 興奮が冷めたころに読み直すと、それはたいてい”誤訳”か”逸脱”のどっちかに分類されます(笑)。

 商品化されるまでには”会心の訳文”という名の、わたしの”やりすぎ熱いポエム”は、訳者校正でほとんど消えているので、問題ないといえば問題ないのですが。

 表紙の画家さん、デザイナーさん。解説を書いてくださるプロ作家や書評家のかたがたには、本の制作スケジュールがぎりぎりだと、この無修正バージョンのゲラが届けられるんですよねー。

 うあああー。恥ずかしい! 恥ずかしいよーう!

 と、毎度毎度、羞恥プレイをさせられたのがよかったのか、いまはそれほど”会心の訳文”は出なくなりました。

 スパルタ教育、いや、調教のおかげです!

 ていうか、担当さん。初稿は恥ずかしいから、あんまり人に見せないでほしい……

 そうそう。いま、原作のキャラクターに同調する、という話題が出たので、それに関連するお話を。

 翻訳をする時は大雑把にわけて、三つの視点を切り替えながら訳しています。

 ひとつは、<作中人物の視点>。やはり、セリフなどはある程度、キャラクターになりきって芝居をするつもりになる必要があります。

 それをやりすぎると、最初に書いた興奮状態の”会心の訳文”になってしまうのですが(笑)、はじめから、ミスを怖れてのっぺりとおとなしめに訳すよりは、ある程度はっちゃけた訳文を作って、あとから修正する方が、最終的にはいきいきした翻訳になります。

 その時の視点が、<読者の視点>です。

 読者として、訳文だけを冷静に読むと、「なんか意味が通らない」「この訳語が悪めだちしている」「つながりが悪い」と気になる部分が浮かび上がってくるので、そこを直していくわけです。

 なかなかマゾい作業ですけどね。は、ははは。

 そして、もうひとつの視点ですが、それはもちろん、<作者の視点>です。

 作者はどんなつもりでこの文章を書いているのか。

 どこを見せ場にしたいと思っているのか。

 作者なら、ここはどんな演出にしたいと思っているだろう。

 ミステリなら、どこが伏線になっているのだろう。

 翻訳しながら迷った時にはいつも「作者ならどうする?」を考えて決断しています。駆け出しのころはとにかく「原文通りに! 正確に! まちがっちゃだめ!」とそればかりが気になっていましたが、いまはとにかく、「作者は読者にどう読んでほしいのだろう?」ということを考えるようになりました。

 それを考えると、わりと思い切った訳語を選んでも、「自分はこういう理由でこの訳語を選んだ」と自信を持つことができます。

 たとえば、サラ・ウォーターズの。『荊の城』の原作では、主人公の少女が養い親を”ミセス・サクスビー”と呼んでいるのですが、まず、この呼びかけに対して選んだのが、当時のわたしにとっては、かなり思い切った訳語でした。ほら、「原文通りに! 正確に!」と思っていたから(笑)。

“ミセス・サクスビー”、”サクスビー夫人”、”サクスビーさん”、”おばさん”等々、いろいろ迷ったものの、まず一読した時に、すぱーんと頭に浮かんだ単語は”母ちゃん”でした。

 前半はまあ、”サクスビーさん”でもいけないことはないんですが、後半になるにつれて、もう「この子は”母ちゃん”って言ってるよねえ、絶対」というシーンがてんこもりなのです。どうしても”母ちゃん”じゃないと、主人公に対する感情移入の幅が違ってきてしまう。

 わたしが作者ならどちらを選ぶ?

 そう考えて、さんざん迷ったあげくに”母ちゃん”を選択しました。いま考えてみても、わたしなりに、それはそれでひとつの正解だったと思います。作者の意図は伝えられたかな、と。

 呼びかけ、で思い出しましたが、そういえば、サラ・ウォーターズではもうひとつ、思い切った訳語を選んだことがあります。

『夜愁』にミッキーという若い女性が出てくるんですが、彼女の一人称で、ちょっと困った。

 ミッキーは見た目も性格も男の子みたいで、よく男性に間違われる、という設定ですが、”会話だけで男の子と間違えられる”シーンがあるのです。

 そういう時は叙述トリックの定番(笑)、1主語を省略する、2主語を”私”にする、を使えばたいていごまかせますが、ここはそのどちらもできない場面でした。

 ミッキーは”私”というキャラじゃなかったし、主語もどうしても省略できなかったんです。

 うーん。これは。

「ミッキーには”ぼく”と言わせるしかないな……」

 しかし、しかし、しかし。同業者にはわかってもらえると思うんだけど、小説ならともかく翻訳で、少年ぽい女の子に”ぼく”と言わせるのって、ものすごく勇気がいりますよー。まして、時代が第二次世界大戦中という設定だし。

 でも、やっちゃった。

 結果、”ぼく”という言葉がぴたりとはまって、なかなかキュートなキャラになり、ミッキーはわたしにとって、かなりのお気に入りになりました。

 そういえば。サラ・ウォーターズの作品はどれもこれもレズビアンのカップルが登場して、濃厚なラブシーンが出てきますが、もちろん! 訳者も超感情移入して、キャラになりきってがんばってますよ! そりゃもう、ここは見せ場ですからね!(作者視点)

 ただ、それがどうもリアルすぎたらしく(えっへん)、しかも作者本人もゲイであることからか、”訳者も百合”疑惑が広まって、忘年会や作家のパーティーで面と向かって「中村さんってゲイなの?」と堂々と訊かれまくりました。

 何を言っているのだ。

 わたしはね。今年の猛暑で挫折するまでコミケに夏冬通い続けたヲタクですよ。

 男だろーが女だろーが、3次元には興味がない!

 まあ、それはそれとして。

 先月、またサラ・ウォーターズの新刊『エアーズ家の没落』が出ました〜。今回はなんと! 百合ラブシーンは出てきません。そして、主人公はおじさんです。

 これまでとはまたひと味違う、渋いウォーターズ節をお伝えすることができた、と思いますので、お手にとっていただければ幸いです。

 ……こんなアホなエッセイをあと三回も続けていいんだろうか。

 まあ、枯れ木も山の賑わいというし。苦情は田口先生にお願いします。

 ではまた!

中村有希