キャロル・オコンネルってどんな人なんだろうか?
まず、犬好きである。これは私の思いこみ。機会があったら確認します。
それから、いい人である。こちらはオコンネルの自己申告。オコンネルの代表作と言えば、非情な天才女性刑事、キャシー・マロリーを主人公とした一連の小説だけれど、このヒロインを作者自身だと勘違いする人がよくいるらしい。オコンネルは、自分はマロリーにはどこも似ていないと言う。「マロリーは社会病質者ですし、私はいい人……比較的いい人ですから」
そう言えば、翻訳者である私が原書に関して質問のメールを出したとき、オコンネルさんは即座に、とても親切かつ誠実なお返事をくださった。これはもう、まちがいなくいい人である。
それに、反逆の精神と度胸もあると思う。本人はエッセイで、マロリーとちがって「私は意気地なしです」と述べているけれど、とんでもない。「おそるおそるものを言う、映画の脚本からはタバコを排除する、歌に思想は入れない」——そういったことをこの作家は嫌っている。
確かにオコンネルの小説には、よくタバコを吸うシーンが出てくる。マロリーの相棒の酔いどれ刑事ライカーなどは、一度、パブだかダイナーだかで、にらみつける嫌煙家の女を無視してタバコを吸いつづけ、ついに女が「ねえ、あなた、タバコの煙が周囲の人にも害を及ぼすことをご存じ?」と問いただすと、ただひとことこう返す——「ほう?」
オコンネルの作品を読んでいて、よく頭に浮かぶのが、Live and let liveという言葉だ。「人は人、自分は自分」と訳されることもあるけれど、それよりはもう少し、他人の自由、他人のありかたを認めよう、という寛容さが含まれている言葉だと思う。オコンネルの世界は、有害とされるもの、過剰なもの、偏ったものを検閲したり、抑圧したり、排除したりしない世界だ。その作品にはいつも、心身に傷のある人々、特異な何かを持つ人々が登場する。脂肪吸引を繰り返す肥満の女、場面緘黙症の子供、自閉症の青年、頬に傷のある女、アル中の刑事……シリーズのヒロイン、マロリーからして、子供時代の悲劇とその後の孤独で過酷な路上生活が原因で、人間らしい感情の欠落した、いわゆる〈社会病質者〉となっている。しかし誰も彼女を治そうとはしない。仕事をしていないとき彼女は何をしているのか? 誰も知らないし、訊かないし、さぐらない。マロリーは愛されている。そして彼女を愛する人々にとって、彼女はそのままで完璧なのだ。
さて、最新作『愛おしい骨』では、ずっとオコンネル作品の底流にあった、このLive and let live の精神が、ドドッとあふれ出ている感がある。舞台となっている架空の町、コヴェントリー自体がそういう精神の町なのだ。コヴェントリーなら、みな安心して正気を失える。それは本人だけの問題で、他人がとやかく言うことじゃない。頭のイカレた神父は、町を奔走し、恐ろしい警告の言葉をわめきちらす。誰も寄りつかなくなった図書館では、そこに住みついた気の狂った図書館員がひとり筋トレに励んでいる。彼らがどこかに収容される気配はない。図書館も閉鎖はされない。
主人公のオーレンは、家政婦ハンナに言う。「ハンナ、どうしてこの町はこんなに奇人変人ばかり引き寄せるんだろう?」
ハンナは答える。「寛容さのせい。それがコヴェントリーのいちばんの長所よ。(中略)もうひとつ考えられるのは、人はみんな順番に気が狂うものだっていうことね」
要は、みんな狂っていてあたりまえってことですね。
かくして市民権を得た奇人たちは、コヴェントリーの町で自由を謳歌し、さまざまな悲喜劇を繰り広げる……
「少量の狂気がなければ、文学は索漠たる場所になりかねない」——過剰なもの、偏ったものを封じこめる現代の風潮を、オコンネルはそう憂える。けれどもこの作家がLive and let live の精神で命を与え、反逆の精神で大胆に描く奇矯な人々は、たとえようもなく魅力的で、リアルで、鮮烈だ。オコンネルの文学が「索漠たる場所」となることはまずないだろう。そして私は、オコンネルの作家としてのこの心意気をとても好もしく思っている。
務台夏子(ムタイ ナツコ)
英米文学翻訳家。訳書にオコンネル『クリスマスに少女は還る』『愛おしい骨』、デュ・モーリア『鳥』『レイチェル』、マクロイ『殺す者と殺される者』、キングズバリー『ペニーフット・ホテル受難の日』などがある。