「ディック・フランシス入門」で五代ゆうさんも書いておられたとおり、あらゆる物書きの夢は、冒頭数行で読者の心を鷲づかみにすることである。

 私が鷲づかみにされたのは、たとえば、ジム・トンプスンの代表作『ポップ1280』。こんなふうに始まります。

 そう、ほんとはかわいい顔しておとなしくしているべきだったのかもしれない。かわいい顔と言っても、男のおれじゃ限度があるけれど。おれはここポッツ郡の保安官。年二千ドル近い報酬が得られる上に、余禄の収入もある。おまけに裁判所の建物の階上にただで住居を提供されていて、申し分のない住み心地だ。バスルームまであって、おかげで町の大方の住人のように、たらいで体を洗ったり、外の便所まで用を足しに行かずにすむ。

 この「余録」にやられた。和風と洋風の混じり具合がじつにかっこよく、物語世界に一気に引きこまれた。ま、それを言ったら冒頭どころか、町の人口が1280人という意味のタイトルからして、なんか無機質でかっこいいけど。ブラックな笑い+ドライブ感。筒井康隆かと思いました。

 昨年、こんなすごい本を読み落としていたかと驚き興奮したのが、テッド・ルイス『ゲット・カーター』。死んだ(おそらく殺された)兄の復讐のために、主人公カーターが列車で故郷に帰るところから始まる。

 雨がしきりと降った。

 ユーストンからやむことがなかった。列車のなかは淀み、曇った窓から外を眺めているだけで指の爪が汚れてきそうだった。薄明るい雲の下を過ぎていく、汚れた家並みを裏から見ているだけで。手を動かすでもなく、ただ座って目をやるだけで。

 客室(コンパートメント)にはおれしかいなかった。スリッポンは脱いだ。足を投げ出している。『ペントハウス』は死んだ。『スタンダード』は二度も殺した。あと残るは爪が三本。ドンカスターまでは四十分の距離だった。

 おれは黒のモヘアから靴下まで見ていった。爪先を曲げた。足の爪がウールに鋭い畝をつくる。着くまでに切っておかないと。週末には相当歩くことになるかもしれない。

 この暗い雰囲気。事件を探ってやるというカーターの決意がひしひしと伝わってくる。40年前の作品ながら、全篇引用したいところだらけです。ほかのカーターものも読みたいなあ、できれば日本語で。

 最後はジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』

 二本マストの遊覧ヨット、ネリー号は、船首の錨をおろし、帆布一枚はためかすことなく静止していた。今は満ち潮で、風はほとんどない。河をくだるなら、こうして船を停泊させて、潮が変わるのを待つほかなかった。

 テムズの河口湾は、ここから果てしない水路が始まるというように、私たちの眼の前に延びていた。沖のほうでは海と空とが境い目なく溶け合っている。そこの光の広がりの中では、潮に乗ってのぼってくる平底帆船の、赤茶色のするどく尖った三角帆の群れも、ニスを光らせている斜桁も、止まっているように見えた。靄が漂っている岸辺の低地は海に向かって薄平たく消え入っていた。上流のほうを振り返れば、グレイヴゼンドの町の上は空気が薄黒く、さらにその向こうでは薄黒い空気が凝(こご)って陰鬱な闇となり、じっと動くことなく、地上最大の最も素晴らしい都市[ロンドン]の上にのしかかっているように見えた。

 このヨットの上で、「船乗りであると同時に、漂泊の人」マーロウが、魔境コンゴへの旅の体験を語りはじめる。あとに書かれていることを思うと、この導入の雰囲気作りが絶妙。個人的には「薄黒い空気が凝って陰鬱な闇となり」にしびれました。

『闇の奥』が映画『地獄の黙示録』の種本であることは知っていたけれど、岩波文庫版を読んだのは、ジョン・ル・カレの『ナイロビの蜂』(ル・カレ版『闇の奥』?)を訳したときだった。上に引いた新訳では、脇役・端役まで生き生きと動いていて(途中の船着場にいたロシア人とか、クルツの婚約者とか)、あれ旧訳にこんな人いたっけと思うこともあった。

加賀山卓朗(カガヤマ タクロウ)

1962年愛媛県生まれ。おもな訳書に、パーカー『盗まれた貴婦人』、ルヘイン『ミスティック・リバー』、ル・カレ『サラマンダーは炎のなかに』、ブレイク『荒ぶる血』など。

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