第九回『狼殺し』の巻

 みなさんこんにちは。なんだかあっという間に5月ですね。いろいろあった怒濤の春が終わりに近づき、暑がりな私はいまから夏が恐ろしいです……。でもまぁ、頑張るしかないので頑張ります。

 のっけからグダグダなご挨拶ですみません。さて、今回の課題本はクレイグ・トーマス『狼殺し』です。著者は今年の4月に亡くなられたのですね。ご冥福をお祈りすると同時に、天国へ向かって一言申し上げます。『狼殺し』、面白かったですー!

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◆あらすじ◆ 

 1944年、解放直前のパリに潜入したイギリスの情報部員がゲシュタポに逮捕された。仲間を裏切って敵に密告したやつがいる。彼は復讐を誓った。過酷な拷問に耐え、決死の脱出をはかって彼は奇跡的に生き延びた。19年後、ふとした偶然から、彼の眠っていた記憶が蘇った。復讐の機会が向こうからやってきたのだ。裏切り者には死を。虚々実々の情報合戦の舞台裏を描く大冒険スパイ小説。(本のあらすじより) 

 今回は復讐ものです! 1944年、“アキレス”の暗号名で活躍していたイギリスの情報部員、リチャード・ガードナーは何者かの密告によりゲシュタポに捕らえられてしまいます。冒頭で語られる1944年当時の回想の迫力がものすごく、物語に一気に引き込まれました。ガードナーさんはひどい拷問を受け、何百人もの囚人たちとともに収容所に送られていきます。ナチの親衛隊に囲まれ、狭い貨車に乗せられ、死へ向かう……。筆致が淡々としているだけに、悲惨さがストレートに伝わってきました。たくさんのレジスタンスの捕虜たちとともに貨車に揺られ、泣きながら「ラ・マルセイエーズ」を歌うシーンが特に印象的でした。開始そうそうけっこう重くて辛い場面が続きますが、物語の中でも印象に残る部分です。冒頭でガードナーがいかに悲惨な目にあったかを十分に語っているので、その後復讐を始めた彼の心理描写に説得力が出ているのだと思います。

 そして決死の思いで生き延び、事務弁護士になっていたガードナーに、突然復讐の機会が訪れます。拷問を受けた辛い記憶を封印し、結婚して家庭を得て、心配ごとは妻の浮気だけ、というどこにでもいる普通の人の暮らしを送っていたのに……。ある偶然からガードナーに復讐心が湧き起こり、自分を死んだことにしてまで、かつて自分を密告した者を突き止めて殺そうとします。第二部の「アキレスの怒り」以降が、主にその復讐・殺害シーンにあたります。いやはや、ガードナーさんの怒りがすさまじい。ばっさばっさと殺していきます。しかし先ほど述べたように、過去の悲惨な出来事がきっちり描かれているために、ガードナーさんの心理が手に取るようにわかるというか、そりゃ殺したくもなるわな……という気分になります。 

 また、物語の作りとして面白いなと思ったのが、復讐シーンに入ってからガードナーさん視点の語りが少なくなったことです。この作品は三人称で、視点がわりところころ変わります。ガードナーさん視点、彼を裏切った者たちの視点と、さまざまな人物によって物語が語られていきます。ガードナーさん視点は回想シーンも含め、最初のほうに多く、中盤からはヒラリー・ラティマーの視点が多くなります。ラティマーさんはガードナーさんと同じく英国秘密情報局の人間で、彼の過去も知っており、復讐を止めようとします。私の場合、どんどん人を殺していくガードナーさんより、むしろラティマーさんのほうに感情移入して読んでしまいました。もう、ガードナーさんが怖くって。だって彼、事務弁護士していた平和なときより、復讐しているときのほうが生き生きしてるんですよ! そりゃ確かに、あなたがされたことはひどいですよ。過去を忘れて生きろ! とか言えないですよ。でもさ、復讐ってむなしくない? もうやめたほうがいいんじゃないの、というもどかしい思いを、ラティマーさんと一緒に味わいました……。ガードナーさんの視点で語られていたら、そのような葛藤は覚えなかったはずです。ごく普通に、やった、悪いやつをやっつけたぜ! というすてきな気分で読み進めることができたと思うのです。しかしクレイグ・トーマス氏はそんなヌルい読み方を許してはくれぬ……! この、復讐者の視点だけで進めない、という手法が、物語に深みを与えていると思います。

 思うに、クレイグ・トーマスさんは案外サディストなんじゃないでしょうか。(ものすごく失礼な言い分)だってもう、ラティマーさんかわいそうなんですよ! 奥さんは○○しちゃうし!(ネタバレのため伏せ字)やめろ、って何度も言ってるのにガードナーさんは殺人やめないし! もうやめてあげて! と叫びました。おまけに最後には全体の黒幕という、衝撃の真実があきらかに……! いやほんとに。ガードナーさんを陥れた暗号名“ウルフ”の正体もびっくりしました。(あ、いまさらで申し訳ないんですが、タイトルの“狼”はこの人物からきているのです。ほかにも意味はあるのですが)登場人物も読者も著者の掌の上で翻弄されてダンシングするしかないっ! って感じですよ。なんというか、スパイって大変なんだなぁ、としみじみ思いました。なりたくない職業、スパイ。

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 あと第一章の図版も面白いです。何ページにもわたって、事件に関係する書類が挿入されているのです。警察署の調書、新聞記事、内務省の命令書、検査報告書などなど。この書類部分を丹念に読み込むと、物語の隠された部分がわかって面白いです。物語の手がかりはこんなところに! という驚きも味わうことができます。書かれている内容も興味深いのですが、なんと字が手書きなんですよ!「異端者調査 パリ地域でのO.A.Sの活動」とか、書類が大部分手書きで書かれているのです。もちろん日本語で。この字、書類によってきちんと筆跡を変えて書かれているのがすごいのですが、いったい誰が書いたんでしょうね。編集者かしら? というどうでもいいことが気になってしまいました。丸文字だったり、妙に可愛らしい文字もあるので、余計に気になります。こういう工夫のある本って楽しいですね。編集は大変そうですが(ぼそっ)。 

 訳者あとがきによると、この作品はスパイ業界(?)で有名な“フィルビー事件”を背景にしているそうです。それゆえか、ものすごくリアリティのある描写で、読み応えがありました。訳者さんは「重厚長大」と表現されていましたが、多数の印象的なシーン、感情移入できる登場人物、そして最後には驚きもあるという面白い本でした! 未読の方はぜひお手に取ってみてくださいませ。

【北上次郎のひとこと】

 トーマス『狼殺し』は、私の「冒険小説のオールタイムベスト1」なのだが、その面白さが現代の若い読者(しかも冒険小説の初心者)にもつたわると知って、とても嬉しい。次回のテキストは、ヘンリー・ライダー・ハガード『ソロモン王の洞窟』にするが、これをいちばん最初のテキストにするべきだったかもしれない。ただいま反省中。

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クレイグ・トーマスについてもっと知りたい人はこちら→ ●TVを消して本を読め!第十八回(執筆者・堺三保/挿絵・水玉螢之丞)

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