みなさまこんにちは。おひさしぶりの「冒険小説ラムネ」のお時間でございます。今回の課題は、映画化もしている傑作トレヴェニアン『アイガー・サンクション』! 1985年翻訳版刊行の作品ですが、今読んでもめちゃめちゃおもしろかったです。たくさんある魅力をびしばし語っていきたいと思います。もちろん容赦ないツッコミもありますよ!

 さてさて、まずはあらすじを……。

 すぐれた登山家にして大学教授、美術鑑定家、ジョナサン・ヘムロックは、パートタイムの殺し屋である。CIIのサンクション(報復暗殺)要因として莫大な報酬を得ている——サンクションの舞台はアイガー北壁、チームを組んだ登山隊のメンバーの中に、対決しなければならない未知の目標がいる……。 ソフィスティケートされた異色のスパイ・スリラーとして絶賛を浴びた大ベストセラー。(本のあらすじより)

 本書を読みはじめて真っ先に感じたのが、「主人公、設定盛りすぎやな……」でした。いやだって、この原稿を書くために気になった設定や台詞には付箋を立てながら読んでいるのですが、冒頭から付箋立ちまくりですごいことになって困りましたよ! 

 上↑のあらすじにもあるとおり、ジョナサン・ヘムロックは登山家、大学教授、美術鑑定家、そして殺し屋なんですよ! いっぺんに並ぶって何事!? 少年時代は貧困と暴力で苦しんでいて(はい、来ました暗い過去!)、それゆえにひととして当たり前の“良心”というものを持たず、人殺しに罪悪感を覚えない冷たい眼をしています(女性は必ずこの眼にやられちゃうあたりもお約束)。とにかく女性に(一部男性にも)モテてモテて困っちゃう感じで、作中で関係した美女たちは何人にのぼるのであろうか、数えるのもめんどうになりました。

 また、37歳という若さで芸術学部の教授としてTVなどにも出て活躍し、優秀な美術鑑定家でもあり、同じ画家の作品は必ず見抜いてしまいます(とはいえルーベンスに関しては手こずるあたりがニヤっとします)。そんでもってマイ・ホームがなんと教会! 古い教会を買い取って改装して、ローマ風呂をそなえつけてゆっくりお風呂タイムを楽しんで、地下の隠し部屋には蒐集した数々の名画をずらっと並べているのですよ! そしてさらなる絵画を買うために、パート・タイムの暗殺業に従事している、と……。

 さらに、脇役も濃すぎてツッコミが追いつきません。暗殺を依頼するドラゴンさんはCIIなるアメリカの秘密機関(CIAじゃないよ)の捜索制裁部門のボスです。捜索制裁、通称SSは、CIIの人間が何者かに殺された場合、その犯人をつきとめ“制裁(サンクション)”する報復暗殺部門です。そこに君臨するユラシス・ドラゴンさんは完全な色素欠乏症で、白血球を十分に作り出せないため隔離された病室にいて、病弱ながらも絶対的なカリスマ性をそなえた迫力満点の人物です。うわーもー、このふたりのピリピリしたやりとりを読んでいるだけでおもしろいわ! 魅力的な登場人物を描けるということは、それだけでページをめくらせるのですね。いやはや。

 それ以外にも、ヘムロックさん家の庭師は、腕はすっごくいいのに植物に対してものすごい暴言を吐きながら仕事するし(このシーン爆笑でした)、ヘムロックさんがうっかり好きになってしまう魅惑の黒人スチュワーデスとか、もう物語中盤までのキャラクターだけでちょっとお腹いっぱい……。

 しかーし、トレヴェニアンさんは手を抜いてくれなかった! 次に送り込まれたのは、みんな大好き“相棒”キャラだー! ヘムロックさんのかつての山仲間、ベンジャミン・ボウマンは、気のいい森のくまさん的好人物で、ヘムロックの登山をサポートしてくれます。そう、あとで詳しく説明しますけど、この小説って山岳もの+スパイもの冒険小説なんですよ! 全然説明追いついてないけど! ボウマンさんはめっちゃいいひとで、ヘムロックが魅力たっぷりなろくでなし野郎なだけに、なごむわ〜。南米最高峰の山アコンカグアを登る際に生死をともにしたことがあり、ヘムロックさんも彼だけは信用しています。

 とまあ、これで主要キャラクターも最後だろう、と思っていたら、わたしはまだまだ甘かった……。なんとさらにカードを切られてしまいましたよ。次は“絶対的なライバル”キャラがきてしまったー! も、もうやめて、もうここまでくると困る! わたしはライバル設定が大好きなのよ! そんでもってこのヘムロックのライバルというのが、サンフランシスコで麻薬取引を中心とした怪しい職業についている悪い系のイケメンで、女性にモテモテで、でも本人はガチのゲイ、という……。なんなの!? トレヴェニアンさんってなんなの!? ここまで各登場人物に設定を盛り込んだこの作品、一種“昭和のライトノベル”といえるんじゃないですかね……。え、違う? ダメ?

 さて、個性豊かな登場人物が山のように登場する、というのはわかっていただけたと思うのですが、次は冒険小説としてのすばらしさを真面目に語りたいと思います。先にも述べたように、本書は山岳冒険小説+スパイもの、というのが最大の特徴で、登攀シーンのハラハラ感と、ヘムロックが登山チームに参加して、表向きはただの登山家という顔をしつつも、裏では“制裁(サンクション)”する相手を探す、スパイものとしてのおもしろさを味わうことができます。

 捜索制裁部門のボス、ドラゴンさんから依頼された、おそろしく難易度の高い依頼。それはなんと、暗殺対象の詳細——名前すらわからず、唯一“アルプス登山に参加する”ことだけが判明しているというもの。しかもあの“アイガー北壁”を上る登山チームに! アイガー北壁といえば高さ1800メートル、数々の死者を出している“人喰い鬼”の異名を持つ岩壁です。本書にはクライマーと北壁の闘いの記録も書かれており、とんでもなく困難な登山だということが伝わってきます。わたくしも、ボブ・ラングレー『北壁の死闘』を読んでおりますのでね、『アイガー・サンクション』というタイトルを見た瞬間に「おお、アイガーきたー!」とわくわくしましたよ(ずいぶん訓練されました)。そしてこの登攀の際中に、“制裁(サンクション)”する対象を見つけ出し、そして殺しを実行しなくてはならない! まさにミッション・インポッシブルですよ……。

 登攀シーンは、短いですが迫力満点で、それだけでもう読み応えがあります。登山チームの仲間も、寒さや雪崩などでどんどんやられていきますし。ヘムロックさんも作中で、「実のところ、今度のSSの任務全体が、この山という厳粛な存在を前にして見ると、空想的なオペレッタのように現実感のないものに感じられるのだった」と嘆いています。しかし、一読者であるわたしからすると、この“制裁(サンクション)”という任務があるからこそ、本書はよりおもしろくなっていると思うのですよ。つまり、暗殺対象は誰なのか? という謎で読者をひっぱっていくために、息つく暇なく最後まで読めてしまうのです。ふたつの要素があわさって、より豊かなものになる。本当にすばらしいエンターテインメントだなぁ、と感じました。

 というわけで、さすが名作! という当たり前の事実を味わえた楽しい読書ができました。文句なしにいい小説ですので、どうぞ手にとってみてくださいまし。

*「スチュワーデス」は作中の表記にあわせました。

【北上次郎のひとこと】

 トレヴェニアン『アイガー・サンクション』は、ボブ・ラングレー『北壁の死闘』に並ぶ山岳冒険小説の傑作である。山岳冒険小説は少なく、ロナルド・ハーディ『ジャラナスの顔』、アンドリュウ・ガーヴ『諜報作戦/D13峰登頂』、ハモンド・イネス『孤独なスキーヤー』とあるものの、海洋冒険小説の紹介に比べ、遅れている感は免れない。とても残念である。

東京創元社S

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 小柄な編集者。日々ミステリを中心に翻訳書の編集にいそしむ。好きな食べ物は駄菓子のラムネ。2匹のフェレット飼いです。東東京読書会の世話人もしております。TwitterID:@little_hs

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