悩み多き翻訳者の災難 第1回 シャーロック・ホームズの巻

 私が生まれて初めて読んだ翻訳ミステリは、忘れもしない、コナン・ドイルの『緋色の研究』。ワトソンを見るなり「アフガニスタン帰りですね」とその経歴を言い当てるシャーロック・ホームズにいたく感銘を受け、夏休みの宿題の絵日記か何かに、「ロンドンで探偵になりたい」とかなんとか、わけのわからないことを書いたことをいまもはっきりと憶えている。

 さて、小6でホームズに出会って以来、私は人間観察を趣味とするようになった。いや、実のところ、趣味というより悪趣味と呼ぶべきかもしれない。とにかく、暇さえあれば人々を観察して、「あそこで店員に威張りちらしている小太りの男は、きっと家で妻子に虐げられているのだろう」とか、「あそこで熱心に携帯の画面を見ている厚化粧の女は、どうも隣にいる男に愛想をつかしているようだ」とか、死ぬほどくだらない妄想を楽しんでいる。無論、わざわざ真相を確かめるようなことはしないが、ごくまれに確かめたくてうずうずすることもある。先日、沖縄のビーチで見かけたクルーカットのアメリカ人もそのひとりだ。子連れで海水浴に来ているその男は、毎日、砂浜に大きな穴を掘るのだが、その手際のよさ(と穴の大きさ)がただごとではない。まさに塹壕掘りで鍛えたプロの技ってやつだ。あの髪型はどう見ても兵士だし、もしかするとほんものの“アフガニスタン帰り”だったのかもしれない。

 そんな私の(悪)趣味のひとつに「長子嗅ぎ分け」がある。つまり、話をしている相手が長子か否かを推測するわけだが、これがなかなかの的中率を誇っている。 

 長子嗅ぎ分けのポイントは、ズバリ、オタク臭があるかどうか。具体的にのめり込んでいるもの(鉄道とか、アニメとか)のあるなしにかかわらず、自分の趣味嗜好に根拠のない自信や意味のないこだわりを漂わせている人は、長子とみてほぼまちがいない。 

 思うに、幼少期に何年かでも「世界は自分を中心に回っている」という栄光の時代を経験しないと、オタクのメンタリティは育まれにくいのだろう。生まれたときから兄や姉の存在を意識しているわれわれ非長子は、つねに他者の存在を意識している。そのせいか、たとえ好きなものがあっても、100パーセント自分のものとして接する(=のめり込む)ことができない。そんなこんなで「なんて損な性分なんだ!」とひがんでばかりいるのもわれわれ非長子の特徴……いや、それは非長子の特徴ではなく私の性格であった。

 たしか、ホームズには兄がひとりいたはず。言われてみれば彼にオタク臭はない。自信やこだわりは感じられるが、長子とちがって、つねに理論武装している。ちょっと芝居がかった物腰などは、優秀な兄に対するコンプレックスのあらわれに思えることさえある。物事へのコミットのしかたが腹立たしいまでに他人事っぽいところも非長子的だ。

——と無理矢理オチをつけたところで、本日はこのへんで。今週から4回にわたってこちらに書かせていただきます。どうぞよろしく。

対馬妙(つしま たえ)。1960年東京生まれ。おもな訳書に、スタカート『探偵レオナルド・ダ・ヴィンチ』、ハラ『悩み多き哲学者の災難』、ハート『死の散歩道』など。

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