翻訳者にとって(物で)一番の相棒とはなんでしょう? 酒? いや、わたし個人のことじゃなく、一般的に。

 そう、英和辞典。

 最近はインターネットという華やかな友人に頼ることも多く、相談に行ったはずが、ふらふらとよそへ遊びに行って数時間戻ってこないなんてこともよくあるけど、やっぱり一番の相棒は英和辞典。昔はかさばって重かった相棒も今やすっかりスタイリッシュになってパソコンにコンパクトにおさまっている。スマートフォンのアプリになっているものも多い。進化したよね、相棒よ。

 この相棒との出会いを思い返してみると、それは十数年前——あ、まちがえた——数十年前の小学校高学年のころのこと。わたしは友人に誘われて英語塾に通い出した。当時は別に英語に興味などなく、ただいつも遊んでいた友人が行くというので興味本位についていっただけだった。

 塾の先生はさばさばした中年女性で、やる気のないわたしたちにあの手この手で英語のたのしさを教えようとしてくれた。それでもそれは「勉強」にすぎず、わたしはそんな「勉強」、中学にはいってからがんばればいいやといいかげんに流していた。

 あるとき、宿題のプリントをなまけてほとんど白紙のまま提出したことがあった。そのプリントが採点されて戻ってきたのを見ると、hippopotamusということばが逆さに大きく書かれていた。

「ヒッポ……先生、これ何?」

 生意気なわたしがタメ口でそう訊くと、先生は棚から使い古された汚い本を手にとってわたしの前に置き、「自分で調べな」と怖い顔で言った。

 それがわたしと相棒との出会いだった。

 hippopotamusということばを調べてもらえばおわかりのように、先生はぐうたらな生徒のプリントに「バカ」と大書したいところを、ちょっぴりしゃれたオヤジギャグをかましてくれたのである。

 先生の相棒は手垢にまみれ、あちこちに線が引いてあって汚かったけど、手にとるとなんだか圧倒されるものがあった。そのよれよれの相棒に相談してhippopotamusの意味を知り、先生のオヤジギャグを解明した瞬間、わたしはふいに「なんだか英語ってたのしい!」と思ったのである。そしてその後は英語を学ぶのがたのしくてたまらず、ン十年経って気がついたら翻訳の仕事をするようになっていた。

 そんなふうにオヤジギャグからはじまった英語人生のせいか、翻訳ミステリーを読む際にも、下品なオヤジが主人公のオヤジギャグ満載の小説をつい選んでしまう。なかでも一番のお気に入りは『クリスマスのフロスト』などのフロスト警部シリーズ。フロスト警部の傍若無人なオヤジっぷりが、もう身もだえするほどステキなのだ。

 このサイトでも以前、かの美形翻訳者が改心の……じゃなく、「会心の訳文」のコーナーでフロスト警部を紹介している。

 それにしても、「浣腸は好きかい?」ってあなた、ステキすぎるでしょう。

 わたしが今訳しているロマンス小説には、当然ながらフロスト警部のような下品で魅力的なオヤジが登場するはずもなく、ハンサムで、お金持ちで、品性高い完全無欠のヒーローは、いつもしゃれたことばでヒロインをくどく。

 そんなお上品な美辞麗句にちょっぴり飽きがきているわたしは、いつかヒーローにこっそりオヤジギャグを言わせてやろうとひそかに野望を燃やしている。ま、このことは編集者には内緒だけどね。

 結局、「逆さヒッポ」なのはいくつになっても変わらなかったりする。

高橋佳奈子(たかはし かなこ)。東京外国語大学ロシア語学科卒業。訳書に、ブライソン『ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー』、フェネル『犬のことばがきこえる』、コールター『夜の嵐』、クイック『オーロラ・ストーンに誘われて』など。東京都在住。

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