第3回

 チャンドラーの『長いお別れ』ほど何回も読んだ小説はない。

 翻訳でも原文でも読んでいて、本はもうボロボロである。この本が好きだから翻訳家になったと自信をもって言い切れる。

 もちろん、それは清水俊二さんのカッコいい翻訳に負うところが大きい。この翻訳がなかったら、ハードボイルド小説を好きになることもなかっただろう。

 とりわけ、「私がはじめてテリー・レノックスに会ったとき」で始まる第1章は、少なくとも30回は読んでいる。第1章のマニアといっていいくらいである。

 ただ、何回も翻訳と原文を読んだおかげで、「アレ?」と思うところも見つけてしまった。別に間違えていても、清水俊二さんの訳はカッコいいからそのままでもいいのだが、大好きな第1章からあえて1つだけ指摘させてもらう。たぶん、わかりやすいところだから、これまでもどこかで誰かが書いているかもしれない──ダブッたら、すみません。

 彼は娘のことをひとことも口にしなかった。また、仕事がないことも、なんの当てもないことも、最後の持ち金を〈ダンサーズ〉でわずかばかりのあやしげな高級酒にはたいてしまったことも口にしなかった。その高級酒というのは、警察の自動車につかまって豚箱にぶちこまれたり、もうろうタクシーにひかれて空地にすてておかれたりする心配がないほど永もちしない酒だった。(ハヤカワ・ミステリ文庫『長いお別れ』の10ページから11ページにかけて)

 原文は以下のとおり──

 He hadn’t mentioned the girl again. Also, he hadn’t mentioned that he had no job and no prospects and that almost his last dollar had gone into paying the check at The Dancers for a bit of high class fluff that couldn’t stick around long enough to make sure he didn’t get tossed in the sneezer by some prowl car boys, or rolled by a tough hackie and dumped out in a vacant lot.

 問題は、「高級酒」というところ。原文のa bit of high class fluffのfluffを高級酒と解釈しているのである。おそらく、清水俊二さんがお訳しになった時代は、まだいい俗語の辞書がなく、fluffがわからず無理やり意訳してしまったのだと思う。high classが高級なので、小説の内容から推測してつい酒と続けてしまったのではないか……

 現代ではfluffは、リーダーズやランダムハウス英語辞典にも「若い女、a bit of fluffのように使う」といった感じで訳語が載っている。これはもともとはDictionary of AMERICAN SLANGあたりに載っていたものを取り入れたのだと思う。

 つまり、a bit of fluffは若い女性のことである。これにhigh-class people(上流の人)やhigh-class prostitute (高級売春婦)といったふうに使われるhigh classがくっついているだけだから、a bit of high class fluffは「上流の女」といったところになる。つまり、第1章の初めのほうに出てくるシルヴィア・レノックスを指すというのが妥当だろう。

 fluffのあとの関係代名詞that以下は、女の説明だろう。その女がどうかというと、couldn’t stick around(そばで待ってやることができない)のである。これはまさにテリー・レノックスを置き去りしてロールスロイスで去ってしまったシルヴィア・レノックスその人のことではないか。何をどう待てないかというと、long enough to make sure〜(〜以下のことを確認するだけの時間)待てないのである。何を確認するかというと、「彼がパトカーの警官に捕まってブタ箱に放りこまれたり、荒っぽいタクシー運転手に金をとられて空地に捨て去られたりしないこと」である。

 この一説はこう解釈すれば、第1章の前のほうに出てくるシルヴィア・レノックスの行動ともつながり、間違いないと僕は思っていたのである。村上春樹氏の新訳でもそういう方向になると確信していたし、楽しみにもしていた。

 ところが、である──村上春樹訳ではこんなふうになっている。

 彼は二度と女の話は持ち出さなかった。あるいはまた、職もなく将来もなく、〈ダンサーズ〉の勘定を済ませた時点で、ほとんど無一文になっていたことにも触れなかった。〈ダンサーズ〉みたいな高級な店で派手に金を使えば、自分にちっとは箔がついたような気持ちにさせられることはたしかだ。しかしそんな箔はあっという間にはげ落ちてしまう。パトカーの警官たちに見とがめられて留置場に放り込まれるか、たちの悪いタクシー運転手に丸裸にされて空地に放り出されるか、そのへんが関の山である。(早川書房単行本『ロング・グッドバイ』11ページ)

 村上春樹氏は見事に僕の期待を裏切り、fluffを「箔」と訳しているのである。確かに、fluffは「けば」などのことをいい、「表面的なもの」を意味したりはするが。

 fluffが若い女でシルヴィアのことを指していると思い込んでいたのは、僕の誤解だったのだろうか。シルヴィアの行動を踏まえてのチャンドラーのシニカルでしゃれた表現ではなかったのか。

 辞書に明快に意味が出ているのに、村上氏があえてはずすのには、僕には読みきれないそれなりの深い意味があるにちがいない。最近はそんなふうに思えてきて、自分の解釈のほうが間違っているような気がしている……

大久保寛(おおくぼ かんORひろし)。早稲田大学政経学部卒業。訳書に、プルマン『黄金の羅針盤』、コルファー『アルテミス・ファウル』、スケルトン『エンデュミオンと叡智の書』、クーンツ『ファントム』、クラムリー『ダンシング・ベア』など。東京都中野区生まれ、埼玉県在住。

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