第1回

 明けましておめでとうございます。

 みなさま新しい年をお健やかにおむかえのことと思います。

 わたしは故あって長年住み慣れた東京を離れ、神奈川県の一隅にて2012年を迎えることとなりました。

 だらしなく物をごちゃごちゃため込む性質の人間にとって、引っ越しは身辺整理の大チャンス。これまでも引っ越しのたびに思い切って持ち物を捨ててきました。当然ながら今回も。

 いままでの引っ越しとちがって今回大量に処分したのは、アメリカに旅行に行くたびに集めてきた各種の地図やガイドなどの資料類です。なにせ世はインターネット時代で、パソコンさえあれば世界中のありとあらゆる事象についての詳細な情報を手に入れることができるようになり、なかでも地図は、かのグーグルマップのおかげでリアルなストリートビューまで見られるのだから、へたなガイドの出る幕はありません。心置きなく処分できるわけです。

 とはいいながら、じつは捨てられなかった地図もある。そのひとつが初めて買ったハグストロムのニューヨーク詳細マップです。わたしの手元にある単行本ぐらいのサイズの地図は1990年版で、黄色い表紙の一部が日焼けして白くなり、中の紙もそこはかとなく変色して貫禄がついているように見えます。思えばニューヨークに行くようになったばかりのころは、マンハッタンの街を歩きながらしょっちゅうこの地図をバッグから引っぱりだしたりしていたっけ。

 なぜこれを捨てられなかったかというと、この仕事を始めて比較的早い時期に手がけることになったパーネル・ホールという作家のユーモアミステリのシリーズが懐かしかったから。この小説はニューヨークを舞台に、プロとアマチュアの中間にひっかかっているようなポンコツ探偵が毎度毎度事件に巻きこまれていくというものです。当時、プロの翻訳者を名乗るのがおこがましい気がしていたわたしとしては主人公に共感するところも大いにあり、ミステリというよりは、なにをやってもパッとしないヘタレなおっさんの日常エッセイという感じで楽しく訳していました。で、この主人公が使っていたのがハグストロムの地図だったのです。

 ポンコツ探偵は、本人と同様ポンコツなトヨタ車の車内でハグストロムの地図を確認しては、クライアントの住まいへとむかう。そこで待っているのは往々にして彼に災難をもたらす人や事件だったりするわけですが。作品の中に主人公がハグストロムの地図を見るくだりが出てきたときは、ああ、現地の人もやっぱりこの地図を使ってるんだ、となんだかよけいに親しみがわいたものです。

 そんなこんなで、このシリーズを訳しているあいだ、ハグストロムの地図はわたしの大事なパートナーでした。マンハッタンのアッパー・ウェストに住むパーネル・ホールの自宅を訪ねて行ったときも、しっかりバッグにはいっていましたよ!

 まぁ、それもいまは昔のお話です。シリーズも刊行が終了してしまったし、他の作品を訳すにしてもグーグルマップのおかげでハグストロムの地図はめっきり出番がなくなってしまったし。それでもきっと、この地図はこれからも、うちの本棚の隅に鎮座していることでしょうけれどね。

 そしてわたしはといえば、最近はどちらかといえばミステリよりもSFのお仕事をいただくことのほうが多くなりました。見知らぬ土地や親しみのない文化が出てくるという意味ではミステリを訳すのと変わりありませんが、SFの場合、困ったことにその土地も文化もまったく架空のものであることが珍しくないのですね。さしものグーグルさんも千年以上も先の世界の地図を見せろといわれても、そんな注文に応えられるはずもありません。ましてやその世界が地球上になかった日には……。

 こうしてポンコツ翻訳家は、ニューヨークの町並みを思い描きながら訳したユーモアミステリを懐かしみながら、引っ越し荷物にひっそりとハグストロムの地図をおさめたのでした。

田中一江(たなか かずえ)。東京都出身、神奈川県在住。訳書にパーネル・ホール作「スタンリー・ヘイスティングズ」シリーズ、ディーン・クーンツ『ヴェロシティ』、クリスティ『雲をつかむ死』、パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』など。

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