第2回

 先日、本棚に並べた自分の訳書を整理していたら、懐かしい一冊が出てきた。

 パコ・イグナシオ・タイボ二世という、いかにもラテン系っぽい長い名前の作家による『影のドミノゲーム』という小説。出版されたのは1995年なので、それこそ懐かしいにもほどがあるのだけれど、この作品はいくつかの理由で忘れがたい。

 ひとつには、メキシコ発の小説であること。

 わたしは以前から、なぜか行ったこともない南米……というより中米にシンパシーを感じていて、ミステリに限らず作中に中南米が出てくるとそれだけでなにか期待してしまう癖がある。じっさい、アメリカのミステリにメキシコや南米が登場することは少なくない。ただし、たいていの場合それは単なる背景としての南米で、そこに住む人びとはみんな書き割りの一部のように扱われがちだ。そういう作品を読むたびに、「アメリカ人は南米を自分の家の裏庭だと思っている」みたいなフレーズがあながち誇張ではないと痛感させられる。せっかく国境を接している国が都合の良い大道具として使われる傾向が残念でならない。書くならちゃんと書けよと歯がゆい思いを禁じ得ないのだ。

 そこへ行くとこの作品は、スペインからメキシコに帰化した作家が描く1922年のメキシコシティを舞台に一癖も二癖もある四人の男たちが事件を解明してゆくストーリーなのだから、いやでもがっつり南米まみれだ。そんなわけで、ただでさえ日本では紹介されにくいメキシコの、しかもミステリ小説という珍品を、けっこう意気込んで訳した記憶がある。

 もっとも、ご存じのとおり日本には横文字の固有名詞が出てくるだけで拒否反応を示す読者も多い。時代設定がかなり古いうえ、歴史学者でもある著者のメキシコ史に関する知識がふんだんに盛り込まれた物語が受け入れられたとはとうてい言いがたく、芳しい成績は残せなかったと思う。

 では、売れ行きが良くなかったにもかかわらずこの本が印象に残っているふたつ目の理由はといえば、これが二重翻訳だったことだ。スペイン語で書かれている作品はスペイン語から直で訳せればベストなのはわかっていても、あいにくわたしのスペイン語の知識は微々たるもの。そこで、英語版の翻訳をもとにして日本語に訳すことになった。こういう翻訳の仕方があるのは知っていたが、自分がやるとなると話は別だ。ほんとに大丈夫だろうかと不安もあった。

 果たせるかな、英語版の原書には故意か偶然か数カ所の抜けがあったり、もとのスペイン語が訳さずそのまま残っていたりした。事細かに文章の校閲をし、隅ずみまで配慮したチェックを入れて、ときにはこちらが知らないことを教えてくれるなんてありがたい編集者がいるのは日本だけと聞いてはいたが、やっぱりほんとだったのね。

 とはいえ、幸いこの作品の英語版には致命的といえるほどの瑕疵があったわけではない。脱落箇所はもともと原作者がうっかりして書かなかったのかもしれないし、スペイン語のまま残されている部分もたぶんエキゾチックさを出したかったんだろうと好意的に解釈し、あとはこちらの想像力で乗り切って、なんとか本を世に出すことができた。

 それにしても、フランス、ドイツはいうにおよばず、スペイン語圏ならばボルヘスとカサーレスというふたりの大家の共著『ドン・イシドロ・パロディ六つの難事件』、スウェーデン語ミステリの古典ともいうべきマルティン・ベック・シリーズ、最近では『ミレニアム』シリーズなど、非英語圏にも魅力的なミステリ作品はたくさんあるはず。翻訳ミステリのバラエティを増やす意味でも、非英語圏の作品がもっと積極的に紹介されてもいいように思う。各言語を専門とする翻訳家がほとんどいないとか、二重翻訳になったりするのはめんどくさいという訳者が多いのかもしれないが、わたしにだってできたんだから、やればなんとかなる(ほんとか?)。

 とにかく、やれグローバル化だフラット化だと世界は小さくなるいっぽうなんだし、これからは小説の国境ももっともっと取り払われるといい……と思っていたら、桐野夏生氏につづいて今度は東野圭吾氏の『容疑者Xの献身』がエドガー賞の候補になったと各局のニュースが騒いでいる。どうやら日本国内の翻訳ミステリがグローバル化するよりも先に、諸外国が日本のミステリに目をつけちゃったということか。ううむ……。

田中一江(たなか かずえ)。東京都出身、神奈川県在住。訳書にパーネル・ホール作「スタンリー・ヘイスティングズ」シリーズ、ディーン・クーンツ『ヴェロシティ』、クリスティ『雲をつかむ死』、パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』など。

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