第3回

 小説の翻訳に大切な要素はいろいろあるが、会話をうまく訳せることもそのひとつだと思う。

 地の文がどんなに魅力的だろうと、ぎこちない会話文が出てきて違和感をおぼえ、興ざめしてしまったことはないだろうか。もちろん得手不得手はあるし、まったく知らない世界に住む人びとがどんな会話をしているかなど、ほんとうのところわかりはしないのだけれど、腕のある訳者による生き生きとした会話文が結果的にストーリー全体をもスムーズに進めて行くのはまちがいない。

 そんな会話文に関して多くの翻訳者が苦労しているのは、男女の言葉の訳し分けだ。現実の日常会話では男女の口調の境界線はしごくあいまいなものだとはいえ、それをそっくりそのまま使って小説を訳せるかというと、そうは問屋が卸さない。キャラクターにもよるが、男女差を意識せずに会話文をつづけると単調になるし、うっかりするとだれがしゃべっているのかわかりにくくなって読者を混乱させかねないからだ。

 だからといって、いまどき安易に女性の言葉の語尾を「わ、よ、ね」で締めるなんてベタな方法を使って安心している翻訳者はほとんどいないだろう。アメリカの南部訛りを日本の東北弁に置き換え、LAのギャングにラッパー口調を当てはめて事足れりとはいえないのとおなじことだ。しかし、いちいち「〜は言った」と地の文に書くのはやっぱりうるさい。いかにも素人くさい感じもする。翻訳者はみんな智恵を絞って、そういうつなぎをなしにして会話文だけで、だれがしゃべっているかを明確にし、登場人物の人となりをどう書き分けられるかに工夫を凝らす。

 それで思い出すのが、むかし、とある短編を訳したときのことだ。これはすでに既訳のあるものを新たに訳し直す仕事だった。それまで他の方の翻訳に手を入れるという経験はなかったし、もともと影響を受けやすい人間なので、なるべく引きずられないようにと思いながら編集部から受け取った既訳を読んでいった。すると、良いとか悪いとかではなく、古い訳文だけあって女性の言葉は小津作品に出てきそうな表現で、語尾などまさに「わ、よ、ね」のオンパレード。

 これは編集部が新訳をと決断したのもむべなるかなと思っていたところ、ストーリーの中盤で主人公の女性が男にむかって、「私は世界一果報な女です」という一文が出てきた。

「果報な女です」!

 いや〜、なんという表現だろうか。歌舞伎か時代劇ででもなければお目にかかることがないかもしれない。アメリカのSF小説には場違いなほどだ。にもかかわらずわたしは、自分は生涯口にすることもなければ、もちろん聞くこともないだろうこの一言にノックアウトされた。

 正直いって作中でこの言葉は浮いていて、会話文としてはどうかと思わないでもなかった。ただ、特殊な力をもつがゆえにずっと目立たないように暮らしてきてようやく相思相愛の男に巡りあった女性が発する切ない一言として、これ以上の表現はないような気がしてしまったのだ。まあ、これはあくまでわたし個人のツボだっただけで、たいていの読者は読み飛ばしてしまっただろうが。

 上に書いたこととは多少矛盾するものの、時としてこういう言葉も作品全体を強く印象づけることもあるのだろう。女性言葉が厳然と存在していた時代の古風でたおやかな表現。昨今はやりの映画のように古いものに思い出補正をかけて懐かしむわけではないが、なにごとも一周回って新鮮ということもある。タイムマシンがあるならば、「果報な女」という言葉を発する人がいそうな時代をちょっとのぞいてみたい気がしないでもない。それが、これからの翻訳の仕事にプラスになるかどうかは別にして。

田中一江(たなか かずえ)。東京都出身、神奈川県在住。訳書にパーネル・ホール作「スタンリー・ヘイスティングズ」シリーズ、ディーン・クーンツ『ヴェロシティ』、クリスティ『雲をつかむ死』、パオロ・バチガルピ『ねじまき少女』など。

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