第1回  烏鷺(うろ)の争い

 今日(2月5日)放送されたEテレのNHK杯囲碁トーナメントの準々決勝は、趙治勳二十五世本因坊と張栩(ちょうう)棋聖の対局でした。このふたりはとんでもなくすごい棋士なんです。囲碁のタイトルには棋聖、名人、本因坊、天元、王座、十段、碁聖の七つがあるんですが、そのすべてのタイトルを取ることをグランドスラムといいます。長い囲碁の歴史のなかでグランドスラムを達成したのはふたりしかいません。そのふたりが趙治勳と張栩です。趙治勳に二十五世本因坊という称号がついているのは、1989年から十年間本因坊を防衛しつづけたからで、これは本当にすごい記録です。一方張栩は、最年少の二十四歳で名人・本因坊を獲得した実力もさることながら、趙治勳とのこれまで戦績では大差をつけて勝ち越しています。しかも、張栩は、趙治勳の永遠のライバルとも言われている小林光一の娘婿にあたるわけです。

 今日の一戦はまさに手に汗握る戦いでした。序盤の左上隅の攻防で趙治勳は持ち時間の十分を使い切り、お得意のぼやきが入り(「まいったね、読まれちゃったよ、ああ、ひどいね」)、張栩は冷静な読みで終盤を無難にこなし、勝利を引き寄せました。淡路修三さんの解説も面白かった! 

 わたしが囲碁に興味を持ったのは、二十代のころ、新聞の名人戦の観戦記を読んでからです。ぴんと張りつめた空気と、盤上の攻防を伝える言葉がまるで詩のように美しく、そんな素晴らしい戦いならこの目で見てみたいと思ったのがきっかけでした。ちょうど趙治勳が飛び抜けて強い時期だったので、彼の棋譜を見るのが面白くて仕方がありませんでした。そのうち、自分でも打ってみたくなり、しばらく日本棋院に通いました。当時坂田栄男がおこなうタイトル戦の大盤解説は本当に素晴らしかった。翻訳を仕事にする前のことです。

 二年前、早稲田大学文化構想学部で翻訳を教えていたとき、英文学の教授のおふたりが囲碁がお好きだということを知りました。ジェイン・オースティンを訳していらっしゃる大島一彦さんと、ディケンズとシェイクスピアの研究で有名な梅宮創造さんです。梅宮さんとは一度対局し、大敗を喫しました。

 チェスが登場するフィクションはナボコフの『ディフェンス』をはじめたくさんありますが、囲碁が登場する作品は聞いたことがありません。いつかそういう小説を訳せたら、と思っています。ノンフィクションでは、碁が出てくるものを訳したことがあります。

 アスペルガー症候群でサヴァン症候群で共感覚の持ち主というダニエル・タメットは、その不思議な脳のせいか幼い頃からチェスが得意で、『ぼくには数字が風景に見える』という本にそのことが詳しく書いてあります。その彼の二作目にあたる『天才が語る——サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界』に、チェスでは人間がコンピュータに勝てず、碁ではコンピュータが人間に勝てない理由が書いてあるのです。

「チェスでは一手あたりに考えられる指し手はおよそ三十五通りだが、碁では二百通り近くにのぼる。四手先まで考えた場合、(略)十六億通りもある」。さらに「(碁では)王が取られたら負け、というような勝敗の役割を担った駒が存在しない。(略)各棋士がある時点で囲った地の広さが、勝ち負けを示す基準にならない。経験を積んだ棋士が置いた一個の石が、後に敵の地を荒らす重要な布石になることがあるからだ。碁の真髄であるこの曖昧さのせいで、コンピュータは人間に勝つことができない。(略)プロ棋士と互角に対局するプログラムができるまでに、少なくともあと百年はかかる」

 将棋では、今年の一月十四日に米長邦雄永世棋聖とコンピュータのプログラム「ボンクラーズ」が対局し、113手でコンピュータが勝利をおさめました。わたしが生きているうちに囲碁で人間が負けることはなさそうです。

古屋美登里(ふるや みどり)。神奈川県生まれ、東京在住。著書に『女優オードリー・ヘップバーン』、訳書にジョセフ・オニール『ネザーランド』、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』、クレア・メスード『ニューヨーク・チルドレン』、エドワード・ケアリー『望楼館追想』など。

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