2 名訳

 さて、二回目は「名訳」について思うところを述べさせていただこう。しばしお付きあいを。

 翻訳に関するエッセイのテーマとしてはお馴染みのものということになるが、切り口には意外にヴァリエイションがあり、かつ書き手の「底」が明らかになる面もあって、少しおそろしいテーマでもある。

 ここ数年、漠然と念頭にあったある問いを検討する形で進めていきたいと思う。

 その問いとはこういうものである。

「翻訳者は名訳を目指すべきか」

 結論から言えば、名訳を目指すべきだと考えているのだが、その理由については後で述べよう。

 まず答えが明白なように思えるこの問いがなぜ長いあいだ私の頭にあったかについて説明しよう。

「歴史的名訳」を頭に置いて仕事をする翻訳者は注意が必要のように私には思われるのである。

「歴史的名訳」とはいま私が作った言葉であるが、翻訳に親しんだ人であれば、それがどういうものを指すかは自ずから知れるだろう。

 上田敏の『海潮音』、渡辺一夫のラヴレー、堀口大学、佐藤春夫の訳業、平井呈一のサッカレー、多田智満子の『東方綺譚』などのことである。

 これら「歴史的名訳」は滋味に富み、語彙が豊かで、悠揚としていて、漢語が多い。私はこうした名訳を大いに楽しみ、ある時は手本にしてきた。

 しかし、さすがに現代アメリカの小説などにそうした文体を適用しようとは思わない。たぶん原文がそれを拒絶するだろう。現代的な原文にはもちろん現代的な訳文がふさわしい。

 けれど、現代作家でも文語的傾向の強い作家や二十世紀前半の作家になるとどうだろう。

 訳者によっては、そこに滋味を、語彙の豊かさを足したくなるのではないだろうか。自分の持っている文語の技術を駆使したくなるのではなかろうか。それはまあ職業人としては当たり前であって、そのこと自体を咎めるべきではないだろう。

 けれども、時折、そうした気持ちが空転しているように思われる訳文に出くわすことがあって、その時はなかなか微妙な気持ちになるのだ。滋味を、語彙を、悠揚として迫らざる趣を、という訳者の忙しない気働きが透けて見えて、落ち着かないのである。

 しかし思えば、昔の自分の仕事はそうしたものばかりだった。文庫化が決まったりして仕事をはじめた頃の訳文を見返すと、あまりの痛々しさに正視するのが難しいことがある。軽薄な体言止め、類語辞典から借りてきた漢語・和語、無用にくどい言いまわし。それらの一々に溜め息をつきたくなる。

 もちろん、それらがすべて駄目だというわけではない。成功していて味わいを生んでいる箇所もあるかもしれない。けれども、まず味わいありきでは、作者にたいしてやはり面目は立たないだろう。

 そして、私が陥った滋味や漢語という罠は、ひとり私だけに仕掛けられたものではないはずだ。多かれ少なかれ翻訳者の足下にはそうした罠が埋められている。

 だから、若く優秀な翻訳者は「歴史的名訳」的な要素を利用しようとする前に、同人誌やWEB や、あるいは短歌などで修練を積むことをお勧めする。あなたが中学でラテン語の文献を訳していた南條竹則さんのような方でないかぎりは。

 さて、冒頭の問いをもう一度掲げさせてもらおう。

「翻訳者は名訳を目指すべきか」

 最初に述べたように、翻訳者はみな名訳を目指すべきだと思う。しかし、その前に現代の「名訳」というものを明らかにしておかなくてはならないだろう。

 前段で「歴史的名訳」という語を提示した。

「歴史的名訳」は、文体の決定に関しては訳者の強力な筆力に負うところが多かった。だから結果として「訳者先行型」といった体裁になった。

 厳密に言うと、訳者先行型以外の文体というのは存在しないわけであるが、訳者の「意思」の顕著なところを汲んで、その呼称を与えておこう。

 そして現代に目を移そう。現代にも名訳は多い。

 思いつくまま記していくと、南條竹則さんのマッケン、藤本和子さんのブローティガン、岸本佐知子さんのミランダ・ジュライ、柴田元幸さんのダイベックなどなど。  

 これらは過去の名訳のように自己主張はしないが、作品全体として見事なバランスを見せている。

 思うにこれらが名訳になっているのは、作者と訳者の組みあわせが高いレベルで成功しているからだろう。

 そしてそれこそが現代の名訳の第一の特徴であるように見える。

 つまり名訳は以前のように力業ではなく、最近ではより合理的に、作者と訳者の資質の相性を利用したものになっているのだ。私はそれらを「資質加算型名訳」と呼びたいと思う。

 名訳の定義が長くなってしまった。本題に戻ろう。私たちがなぜ名訳を目指すべきかについてである。

 べつに答えは難しいものではない。

「歴史的名訳」と違って「資質加算型名訳」を目指すことに弊害はないので、「良い訳」「成功した訳」の極みにある名訳を目指すのは当然だという話である。

 実質的に相性のいい作家に出会ってそれを訳出するためには、もちろん運が必要ではあるが。

 しかし、もしかしたら、訳者の資質によりかかることにたいして、危惧に近い感情を覚える方がいらっしゃるかもしれない。若い時に自分がそう考えたように。

 若いころ私は以下のような訳文が存在すると考えていた。

 篤実な訳、自然な訳、平明な訳、フラットな訳、ニュートラルな訳。

 しかしいまではその考えはすっかり変わっている。私はそういった客観の存在を仄めかすような言葉はもう信じていない。

 篤実も自然も平明もフラットも、原作とは関係のない言葉だと思っている。それはただ仕上がった日本語を評するだけの言葉であると。自然な訳、ニュートラルな訳を心がけた、などと言って済ませられる文は小説にはない。

 さらに踏みこんで言うならば、翻訳されたものは原作と同じではない。それはもうしょうがないことなのだ。元々そういうものであるとしか言いようがないのだ。

 だからこそ、翻訳者には重大な責任がふりかかるだろう。

 翻訳者によって、名作が不快で読めなくなる場合もあるし、凡作が名品になる場合もある。原作にたいする翻訳の影響力は一般的な読者が考えているよりだいぶ大きい。確かに訳者は大きな責任を負うべきだろう。

 しかし翻訳者の手には手がかりがたくさん与えられていることも事実である。そして仕事の難しさが翻訳者を駆りたてる面があることもまた確かであるようだ。

 道はつねに険しく困難で、見返りは残念ながら多くはない。ただ、優れた訳をものした翻訳者の頭には、見えない宝冠がそっと載せられているような気がしないでもない。

西崎憲(にしざき けん)。青森県生まれ、東京在住。訳書にチェスタトン『四人の申し分なき重罪人』、バークリー『第二の銃声』、『エドガー・アラン・ポー短篇集』『ヘミングウェイ短篇集』など。2002年にファンタジーノヴェル大賞受賞。小説に『蕃東国年代記』、『ゆみに町ガイドブック』など。近刊に『飛行士と東京の雨の森』(仮題)。音楽レーベル dog and me records 主宰。

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