1 モノとしての本(前)

 2009年10月、香港に転居しました。

 英語の本を日本語の本に翻訳する仕事をしている栗原百代と申します。

 初めての訳書を出してもらったのが1999年なので、11年目の転機でした。

 ちなみに香港は、日本とは時差1時間(東京が朝9時なら香港は8時)で亜熱帯に属し、いちおう四季はありますが、栗原の独断で申せば1〜3月が冬、4〜9月(半年)が夏、10〜12月が秋。春はないに等しいです。観光には秋をおすすめします(割高ですけど)。

 公用語は英語と中国語(広東語と北京語)ながら、広東語しか通じないケース多々あり。特にタクシーでは、英語では話が通じず乗車拒否されることも。香港でタクシー(安くて便利!)に乗る際は行き先を書いた紙を用意するか、広東語の発音を覚えておきましょう。

 この広東語の習得が、家にこもって日本語と英語ばかりいじっている坐業者にはいかにおぼつかないか、なんていう話はさておいて……。

 こちらに来ても翻訳を続けることに、なんら疑問はいだいておりませんでした。なにせ世はWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)の時代、(ほぼ)どこにいても(ほぼ)リアルタイムで情報を共有できる環境がある。香港では中国本土のインターネット検閲の影響は受けません。えっと受けてないはずです、と思います。そうそう、東京にいたときだって編集者と一度も会わないで完了させた仕事もあったわけだし……。

 ところがどっこい、やはり国を越えるとなると物理的制約は非常に、いや非情なまでに大きいことが次第にわかってまいりました。が、遅かりし由良之助、もう来たものはそう簡単には戻れません(ううう、当分は)。

 海外在住ゆえの物理的制約……その最たるものは、日本語の本を入手しにくいこと。

 翻訳という仕事では、資料として必ず大量に必要になるので、かなりのデメリットです。

 みなさんは、無人島に1冊だけ日本語の本を持っていくなら何にしますか?

 20年前、アメリカのとある田舎に1年間滞在したとき、わたしが1冊だけ持っていくことにしたのは、ちくま日本文学全集『坂口安吾』(「堕落論」と「白痴」と「桜の森の満開の下」がそろって収録)でした。ただ好きだから、というだけの理由で。でも結局、もうこれだけじゃ耐えられないっ、と思ったころに隣町に住む日本人のかたと偶然知りあって、蔵書の池波正太郎『鬼平犯科帳』などを読ませていただきました。ニューイングランドの凍える冬の夜に味わう鬼平、沁みましたぜ。

 ……えーとえーと、すみません、脱線しました。しかし今回は何年になるかわからない海外移住、なのに国際引越しの荷物には制限があって、あまり多くを持っていくことあたわず。1冊だけという究極の選択まではいかないものの、相当な決断を迫られました。

 進行中の仕事の資料だけで数十冊、それに某読書会で粛々と読み進めていた『失われた時を求めて』全13巻(鈴木道彦・訳、集英社、2011年5月に読了、えもいわれぬ経験でした!)と、必須のレファレンス——『しぐさの英語表現辞典』とか『英語クリーシェ辞典』とか『数え方の辞典』とか『罵詈雑言辞典』とか『図説・銃器用語辞典』とか『官能小説用語表現辞典』、わずかな例示の選書の基準は好みであって使用頻度にあらず——を除くと、あと数十冊が限度。

 そのうちの実に37冊までをこれだけで占めるのを覚悟で、ためらうことなく、白水社Uブックスの小田島雄志・訳、シェイクスピア全集を荷物に入れました。

 福田恒存、中野好夫をはじめ、野島秀勝、小津次郎、安西徹雄、ちくま文庫で現在全集刊行中の松岡和子ら他の先哲の訳書も、タイトルごとにいろいろ持っていますが、全集はこれだけ。引用頻度の高さもさることながら、シェイクスピアの物語の日本語版をひとつでも欠いたら、きっと後悔する。そう思ったのです。新書版で軽量だったのも幸いでした。

 かくして留守宅に愛しい蔵書のおおかたを残したまま、香港の借家に書棚を買い足し、買い足ししながらの在外翻訳生活を、もう2年半続けています。1〜2カ月に一度は日本出張にいく家人に、留守宅の書棚からの資料サルベージを依頼することもあるのですが、東日本大震災でスチール書棚1台が大破したうえ、その後もろもろあって納戸の書棚前がふさがれてしまい、ほとんどミッション・インポッシブルとなり果てました。

 それにしても、リーダーズ+プラスやランダムハウス、斎藤和英、広辞苑、スーパー大辞林、忘れちゃいけない新明解(笑)、世界大百科、LONGMAN Advanced AMERICAN、OXFORD Advanced Learner’s などの主だった辞書・事典が、PCに入れて辞書ソフトで引ける時代でよかった……大判重厚な辞書引きをウェイトトレの代わりにしていたころの海外転居だったら、たちまち容積・重量オーバーになっていたはず。

 DictJuggler.net「文章に携わる人のための辞書・検索サイト」のような使い勝手のよいウェブ辞書サイトが充実しているのも追い風になってくれています。

 とはいうものの……。

 たしかに、インターネットがなかった時代に比べればネット検索で多くのことが調べがつくようになりました。それでも、著作物を翻訳するうえで、その著者が参照した原語の資料に加えて邦訳版を参照し、先行訳を確認したり当該著作を概観したり、関連テーマについて日本でどう受容されているかを把握するために決定版的な和書に目を通したり、といった作業は欠かせません。そうした下準備を経ずに、いま目の前にある英語で書かれた作品の、この文章のこの語句に対し、日本語読者に向けて最もふさわしい(と訳者なりに定める)訳語をえらびとることはできないと考えます。

 たとえば哲学者による経済学入門書、ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』では、原註に挙げられた邦訳書だけでもざっと70冊ほど。そして在外の身では、ほんの数語の引用でも、ちょっくら図書館に出かけて調べてくるか、とはいかないわけで。

 また、香港には日系書店も数店ありますが(九龍・尖沙咀の tomato books さーん、《本の雑誌》と《ミステリマガジン》の定期購読でお世話になってます、ヤッホー)もちろん本のお値段は日本からの輸送費を反映したもの。わたしが資料とするたぐいのマニアックな本はまず入荷されないし、文庫はおよそ1カ月遅れ、しかも全タイトルではありません(集英社文庫『ヘルプ 心がつなぐストーリー』もこちらでは映画が昨秋に終わっていたせいか、見かけませなんだ。しくしく。。。)

20120506101456.jpg そこで入手方法としては、アマゾンJPなどのネット書店から直接購入することになります。物理的制約がもろに実感されるのは、ショッピングカートに欲しい商品を入れて、チェックアウトするあの時です。アマゾンの場合、海外配送は国際エクスプレス便(香港行きは、以前はFedExで現在はDHL)しか選択肢がありません。

 すると、早ければ中2日で届くのはありがたいのですが、配送料がものすごーくかかります。例として日経BPクラシックス版のミルトン・フリードマン『資本主義と自由』を香港在住の栗原が買うと、商品2400円で「配送料・手数料」は2200円、あらやだ代金と似たり寄ったり(ちなみに、送り先が海外だと「消費税」は加算されないのですね、最近やっと気づきました)。

 あ、そうか、翻ミス大賞シンジケートなんだからミステリーの例をば。拙訳近刊のケイト・モートン『リヴァトン館』文庫版(上・下)を香港から買うとすると、本代は1700円で配送料・手数料2500円のほうが軽〜く上回ってしまいますのよ奥さま旦那さま。

 東京で、配送料0円、翌日着が当たり前の生活にあぐらをかいていた身には、けっこうこたえまする……。いまはただ、この配送料を払っていけるだけの残高=元手がまだ銀行口座にあってよかったと思うばかり。

 せめて、ここはひとつ、本家Amazon.comみたいに、国際配送を標準(18〜32日)/急送(8〜16日)/即時(2〜4日)の3つからどれかを選べるようにしていただけないでしょうか、アマゾンJPさーん。

 まあ、大量輸送のデイリー定期便を利用しているとおぼしき「購買代行業」もいろいろありまして、数日のタイムラグを我慢すれば安い配送料で届けてもらえます。わたしは、急ぎではない趣味の本などは、重量1キロあたり送料600円の中国購買王を利用しています。

 それでも、新刊本が市場に出まわっている本はまだよいのです。というのも——

 あれれれ、すみません、あちこち寄り道しながら自分のことばかり一方的に書き散らしていたら長くなりました。この続きは、よろしければまた来週に。在外翻訳者として他の何より切実に欲しているものとは、こうした本や翻訳や日本語についてのとりとめのないおしゃべりなのかもしれません。

※写真:香港に来てから訳した本たちとともに。手前が九龍サイド、緑は九龍公園です。はるか向こうが対岸の香港島、中国返還式典が行なわれた灣仔(ワンチャイ)の香港會議展覧中心(コンベンション・センター)が見えます。

栗原百代(くりはら ももよ)。東京生まれ、2009年秋より香港在住(時期不明ながら東京に戻る予定)。主な訳書として、フィクションではヴェリッシモ『ボルヘスと不死のオランウータン』、モートン『リヴァトン館』、ストケット『ヘルプ 心がつなぐストーリー』、ノンフィクションではジジェク『ポストモダンの共産主義』、ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』、ピカディ『ココ・シャネル 伝説の軌跡』(共訳)など。

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