4 世界に、天にヘルプ!

 こんにちは。在港ぎりぎり訳者(←先週記事参照)のクリハラです。

 香港ID所持者なのに、今ごろ香港のボルヘスこと董啓章『地図集』(藤井省三、中島京子訳、河出書房新社)を読んでます。英語と漢字の多義性を活かした絢爛たる与太話にうっとり。原書『地圖集』(台湾の出版社、聯經刊)も買いました。勉強しようっと。

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 2月刊行のキャスリン・ストケット『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(集英社文庫)、不思議な巡り合わせで翻訳することができ、在外翻訳者の憂鬱ならぬ僥倖に恵まれました。シンジケートの越前敏弥さんがブログ「翻訳百景」に応援記事を書いてくださったこの本です。

 2009年11月、香港に転居したばかりの栗原に、一通のメールが届きました。

 翻訳学校の恩師、柴田裕之先生から「一つお願いがあります」の掲題で、見ると、ぜひ邦訳を出してほしい原書があると翻訳を学んでいる知人から相談されたが、先生ご自身のジャンルではないため、よかったら栗原に相談に乗ってもらえないかとの由。1960年代アメリカ南部が舞台で、黒人と白人の女性3人のモノローグで進むフィクション。

 翻訳フィクションの厳しい現状を考えると躊躇いもありましたが、尊敬する師から見込まれての話を断わるわけにはいきません。その作品紹介のWord文書をお預かりしました。

 The Help — by Kathryn Stockett この本の存在は知っていました。

 アメリカで2月に刊行されて以来ベストセラーになっていたからです。相談に乗るならまず本を読まねば。ところが慣れない香港での暮らしに加えて、目の前の仕事に追われ、なんら対処できないまま年が明け、2010年の2月を迎えてしまいました。

 少し時間ができ、あぁ申し訳ないと反省するのと同時に、そもそも版権はどうなっているのかと思い至り、旧知のエージェント経由で、持ち込みの企画書を預けて連絡をとりあっていた気安さでタトル モリ・エージェンシーに状況を尋ねました。まだ空いている!

 そこから、本作を日本に紹介したいと声をあげ、柴田先生から栗原に紹介されたその人、アメリカ西海岸シアトル在住の城田朋子さんとのご相談、共同作戦が始まりました。

 城田さんはアメリカで、この作品が描いた50年後のいまも残るさまざまな差別の現状、そして本作が人々に与えた感動の広がりを肌で感じ、なんとか日本でも出版されることを希望していました。実務翻訳でご活躍ですが、文芸の経験はないので自分の手で訳すのは無理としても、なんらかの形でこの作品を日本に紹介する力になりたい、と。

 タトルの担当エージェント盛川さんとも連絡をとり、この作品を出版社にアピールする方法を探りつつ、わたしが進行中の仕事のあいまに原著を読み終え、城田さんのご意見も加えたセールスポイントを盛り込んだシノプシス(作品概要)を書きあげ、とりあえずの試訳も作成したのは、さらに4カ月後の6月のことでした(遅っ)

 このThe Helpをはじめて読んだときの感動は忘れられません。

「ヘルプ」とは——白人家庭の黒人メイド、助けてという心の叫び、そして自分も力になるという勇気ある宣言。1960年代の前半、黒人差別が制度として公然と行なわれていた深南部ミシシッピ州が舞台。この小説は、時代はやや下れど、ヘルプに育てられた著者がその亡き「育ての母」へ捧げた鎮魂の書なのです。

 とはいっても、深刻で重い物語ということは微塵もなく、黒人差別のみならず現代にも残るあらゆる「境界線」——人種や民族、性(ジェンダー)、世代、階級、障害の有無や貧富の差などによる差別の構造を、暴力や依存、いじめの問題をビビッドに描きながら、ユーモアに満ち、力強く明るく前向きなメッセージを発している。何より、面白い!!

 日本の読者に紹介したい。紹介すべき。紹介しなければ。時がたつほどに使命のごとく感じられてきましたが、芳しい返事はなかなか頂けません。いわく、南部もの、黒人もの、女性もの、新人のデビュー小説の「四重苦」がセールスの阻害要因なのだとか。

 映画化が進行し、撮影が行なわれているころ、栗原はやっとシノプシスと試訳をアップデートしました。本作は2人のヘルプ(エイビリーンとミニー)と、作家志望の若い白人女性スキーターが交互に語る形式で、その3人の「声」の個性が魅力なので、それぞれの部分の試訳を用意したのです。それをエージェントに預けたのが、2010年8月のこと。しかし相変わらず出版社サイドからの反応はなく……。

 あっというまに年を越し、あの東日本大震災があり、出版業界はこれからどうなるのか議論かまびすしかったころにThe Help映画予告編が公開されました。なんとも生き生きとした女優陣とカラフルに輝く映像。これはいけそう! でも、このときはまだ版権が「世界各国に売れているのに日本だけぽっかり穴があいて」いたのです。

 状況が大きく動いたのは2011年8月でした。映画The Helpが全米公開されて4日後の14日、仕事持参の旅先プーケットで盛川さんからのメールを受信しました。映画の日本公開が来年3月に決定した、いくつかの出版社に再検討してもらっている、とのこと!

 城田さんが現地の映画館で観た感想を送ってくれました。「最後には観客席から大きな拍手が起こりました。これだけ読まれた原作を2時間ほどの映画によくまとめて、読者の期待を裏切ることなく感動させた手腕はすごい。あれほどたくさんの笑えるツボと感動を盛り込んだ原作のすごさも、あらためて感じました」。これを盛川さんに転送し、映画の評判を知りたがっている版権検討中の出版社に伝えてもらいました。

 そして忘れもしません、9月1日にまず盛川さんから「ついに版権が売れました!」とメールがあり、集英社で担当は金関さん、翻訳は栗原に任せたい、2月刊希望とのこと。次いでその金関さんからメールと国際電話があり、11月28日を締切りとして、ようやく邦訳刊行へと歩み出しました。

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 60回も出版を断られたストケット女史ほどではないにしろ、柴田先生からのメールが2年近く前だったことを思うと感慨深かったものの、感激に浸る余裕はありませんでした。わたしは9月末まで進行中の翻訳(ちなみに『資本主義が嫌いな人のための経済学』)を抱えており、10月上旬に国慶節休暇でスペイン旅行を予約していました。大判のハードカバー450ページを2カ月未満で訳しきるのは……ううーん、厳しい。

 その時が来たら下訳をお願いすると約束していた城田さんは、フルタイムの仕事があり、1人ではとても無理……。そこでありがたいことに、やはり柴田先生の門下生でたまたま香港に転居してきていた水野久仁子さんにも下訳を引き受けてもらえたのです。香港でも映画が9月に公開され、2人で参考のために観に行くことができました。

 下訳ってどんなもの? とよく訊かれます。わたしは全面的に下訳を直すタイプなので、これなら一から訳すのと変わらないのでは? とも。ですが、原文の「声」を日本語で定めるときに、自分だけで訳しているときは、ああでもない、こうでもないと自分のなかの他者を総動員して、ほどよい加減をさぐっていきます。それを別人の視点から、最初から提示しておいてもらい、そこでの違和感、親和感を手がかりに着地点を見つけられるので迷う時間が短くなり、大いに助かるのです。

 分担は、とにかく時間がないため、奇数章と偶数章で分け、前から順に1章ずつバックアップを兼ねてdropboxでファイル共有し、同報メールで連絡しあうことにしました。下訳者さんたちには飛び飛びで、訳しにくくて申し訳なかったのですが、わたしが前から順に仕上げたかったのと、大きな塊に分けることで間が空く危険を避けたかったので。

 そうしてマドリッドでもバルセロナでも、移動中やホテルでdropboxにログインし、訳稿を仕上げつづけ、エイビリーン、ミニー、スキーターの語りが2章ずつ出てくる第6章までの栗原訳をアップしました。この3人の「声」をフィードバックとして、その後の下訳で参考にしてもらう。そこからは香港とシアトルで3人で必死に訳し進めました。

 想像上のキャラクターも歴史上の人物も、また地名や施設名など固有名詞が多いので、Google docに用語集を作りました(が、栗原の脳内では統一されていたものの、時間に追われ、用語修正する余裕がなく、あまり機能せず。校閲には役立ててもらいました)。

 そしてとうとう脱稿。その後は日本の編集部と香港の栗原のタッグ。先週書いたような国際便、メール、電話、ファクスなどを駆使し、ぎりぎりまで粘った校正を経て、ついにThe Help の日本語版『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(上下)が誕生しました。

 その間にも映画The Helpはアカデミー賞の作品賞候補となり、オクタヴィア・スペンサー(ミニー役)が助演女優賞を受賞するなど、翻訳書の宣伝に弾みをつけてくれました。映画の成功なしには邦訳刊行されなかったかと思うと、翻訳者としては忸怩たる念が残るものの、いまはそれすらもこの素晴らしい小説の日本語版を生み出すための天の配剤であったと感謝するばかり。これから広く長く読まれる本に育つことを願ってやみません。

 今後も日本語読者にぜひ紹介したい本を紹介できるよう努めていきたいです。

We are just two people. Not that much separate us. Not nearly as much as I’d thought.(お互いただの人間どうし。わたしたちを分け隔てるほどの違いなどない。あると思いこんでいた、大きな違いなどは。)——著者あとがきで引用された本文より

※写真:香港の総合(英文・中文)書店チェーンPage Oneでは2012年5月現在もThe Helpがベストセラーリスト入りしています。これは2011年・英Penguin刊の映画タイアップ版ペーパーバック。

栗原百代(くりはら ももよ)。東京生まれ、2009年秋より香港在住(時期不明ながら東京に戻る予定)。主な訳書として、フィクションではヴェリッシモ『ボルヘスと不死のオランウータン』、モートン『リヴァトン館』、ストケット『ヘルプ 心がつなぐストーリー』、ノンフィクションではジジェク『ポストモダンの共産主義』、ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』、ピカディ『ココ・シャネル 伝説の軌跡』(共訳)など。

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