第1回 五万円の至福と憂鬱
はじめまして、何の因果かこれから一か月間、この欄を担当することになった青木純子です。
因果はいちおうございます。
今年四月、同業の皆々様が投じてくださった清き一票のお蔭で、拙訳『忘れられた花園』が栄えある第三回翻訳ミステリ大賞をいただいたのが運の尽き——いえ、ご縁となったわけでして。エッセイとは名ばかりのしょーもない作文ですが、おつき合いのほどよろしくお願いいたします。
それにしても翻訳ミステリシンジケートは太っ腹であります。賞状とトロフィーだけでも感無量なのに、なんと副賞(五万円分の図書カード)とラブリーな花束までいただいてしまいました。
賞状をいただくなんてグリコの健康優良幼児コンテスト(こんなのが昔はあったのです)で二等賞に選ばれて以来ほぼ半世紀ぶりの快挙。こうなったらこれを豪華な額におさめ、トロフィーともども我が家の玄関にさりげなく展示し、日ごろお世話になっている日本郵便や宅配業各社の方々と喜びを分かち合いたいものよと、ささやかな妄想にふける今日この頃です。
受賞の喜びをさらに膨らませてくれたのが五万円分の図書カードなのは言うまでもありません。古本購入率ががぜん高い翻訳者にとってはまさに旱天の慈雨。
新刊書がいっぱい買えるぞ、わーい!
当初はあっという間に使い切るだろうくらいに思っておりました。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さなかったのです。
せっかくのご褒美だし、ここはぜひ記念になるような本をどかんと買おうじゃないかと気負ったのがいけなかった。
超豪華本、辞典、気になる本、話題の本、好きな作家の本、趣味本……いくら考えても、よし、これだっ!というものが浮かばない。
年明け早々に買ってしまったプルーストの『失われた時を求めて』全13巻セットを(集英社文庫、約一万四千円)。今年こそ読破だと周囲に豪語していたわりにはいまだ着手に至らず、こんなことなら四月を待てばよかったと悔やまれます。
そういえば『テルマエ・ロマエ』は第一巻を買ったきり……いや、いただいたカードでこれを全巻そろえるのはいくらなんでも気が引ける。
『フローベール全集』全10別1セット(筑摩書房、税抜五万円)なら金額がどんぴしゃり——って、そういう問題でもない。欲しいことは欲しいけれど、一回で使い切るのはあっけなさすぎ。そもそもちゃんと読めるのか? プルーストはどうする?
タイミングも悪かった。ちょうど次の仕事にとりかかったばかりだったから、本屋に行く気がまるで起きない。一意専心、とかいう立派なものではなく、何かやりだすと朝から晩まで頭のなかがそればっかりになってしまう不器用な奴なもので。
七年ほど前まではいくつかの大学で教えていたこともあり、本屋通いはほぼ日課でした。大学周辺には特色ある品揃えの中規模書店も多かったし大学生協の書籍部だってあった。通過駅の池袋や新宿の大型書店はもちろんのこと、毎日日替わりでどこかの店にふらっと立ち寄っては出版界の動向チェックに勤しみ、思いがけない本との出会いに胸ときめかせたものです。
ところが翻訳を専業にした途端、本屋はいつしか遠い存在に。
それもこれも密林ドットコムに飼いならされてしまったせいでありましょう。だって便利なんだもの。パソコン画面をポチっとやるだけで必要な本が玄関先に出現するシステムは大いなる魅力。しかも最近は「だんな、いい子がはいりましたぜ」みたいなノリでおススメ本を並べて見せる手口まで身に着けおってからに。自分の訳書をおススメされた時は、「おお、さすがわかってらっしゃる」と思わず肩を叩きたくなったほど。
とまあそんなふうだから、たまに本屋に行っても自分の訳書の待遇チェックと配置替え(こらこら!)をしたついでに新刊書の平台をさらっと眺める程度、といった体たらく。
電子辞書のピンポイント検索に慣れきってしまうと、引いた語の前後に目を遊ばせて意外な発見をする余裕をなくし、やがて知的好奇心が休眠状態に陥ってしまう。本に関してそれと似たようなことが、わたしのなかで起こっているらしい。
そうこうするうちに一か月半が経過、シンジケート事務局のS・Rさんから「図書カードで買った本を報告されたし」とのミッションも出ていることだし、なんとかせにゃならない……。
幸い仕事も一段落したので、青木、決めました。この五万円は知のリハビリ代として使わせていただこうと思います。本屋という名の湯治場にしばし通い(泊まれないのが玉に瑕)、初めは湯あたりしそうだが徐々に体を馴らしていって、眠りこけた知的好奇心を目覚めさせるのです!
気持ち的には代官山温泉の蔦屋旅館に惹かれるが、愛車のママチャリを飛ばせば二十分で行ける池袋がやはり妥当な線だろうか。
◇青木純子(あおき じゅんこ)。7月10日生まれ。蟹座。0型。東京都在住。主な訳書:フェリペ・アルファウ『ロコス亭』、クリストファー・バックリー『ニコチン・ウォーズ』、ローレンス・ノーフォーク『ジョン・ランプリエールの辞書』、B・S・ジョンソン『老人ホーム』、アンドルー・クルミ—『ミスター・ミー』、ギルバート・アデア『閉じた本』、ケイト・モートン『忘れられた花園』(以上東京創元社刊)、マリーナ・レヴィツカ『おっぱいとトラクター』(集英社文庫)など。 |